run rabbit junk short bad bye 7
水音が耳を打ち、冷たい感触が肌を打ち、塩の辛さが傷を打った。
ロブスタージンに殴り飛ばされ、吹っ飛んだ先は、海だったか。
洋上に浮かぶ浮島であるこの町には、そういう海への隙間が幾箇所かある。
落下の勢いがついたまま、どんどんと俺は沈んでゆく。他人事のように、それを感じていた。
意識が、朦朧とする。
尻尾を巻かない、前に進む、そう言っておいてこのざまか?
ダメージを負っても、水中でも視力を失わない改造人間の目が、隙間じみた水面から注ぐ光で輝く泡を見ていた。
泡には、色んなもんが移っていた。
昔の知り合い、石野卓球の記憶。二人で茶を飲みに言ったこと。
卓球が、俺達の車を見ていったこと。
クリオネが、俺達の車、小さな小さなフィアット500を持ってきたこと。
こいつは、兎生の走馬灯って奴か?
違うなあ、と、今の俺ははっきりと認識していた。
こいつは単なる、打撃のショックでしかない。そして、どうやら、それで死ぬほど俺は柔じゃなかった。
瞬きをする。思い出は泡と消えた。
水中に靡く長い耳の中に、泡の中に移っていた石野卓球のあきれた様な声と、それに対する俺の冗談めかせた意地が聞こえた。
ああ、そうだ。
傷を噛み締めて、俺は笑った。
俺達ゃ、皆皆、素直じゃねえんだ。この世は随分、肌に染みるからな。大事なものはついつい内側へ、内側へ包みこんで、外っ面は意地と軽口ばかりになっちまう。
あんまり内側に抱え込むもんだから、折角の大事なものを、人に見せたくないものと一緒の内ポケットに捻じ込んじまって、覗かれたらどうしよう、取り出すときに一緒に仕舞った見せたくないものを取り落としたらどうしよう、と、益々出せなくなっちまうんだ。
銃声が聞こえた。兎の耳は、銃声以外の物事も、聞き逃さなかった。
このクソッタレな混乱の巷に、俺を置き捨てたメフィスト。
その腕前に、今は感謝してもいい気分だった。アイツの本音を今まで聞けなかったのは、俺が馬鹿だったからってだけで、この体は実際大したもんだったんだからな。
聞き逃しちゃいけない言葉を、聞き逃さなくて済むんなら、兎の命も悪くはない。
ロブスタージンの野郎には、聞こえなかったかもしれねえな。野郎の触角は、あくまでレーダー器官だからな。
・・・聞こえなかったらいいな。こいつは、アイツにやるには勿体無い。俺とクリオネの、二人だけの者にしておきたかった。
俺の出来の悪い脳みその横の、サブ電脳にもしっかりログが残っている。紛れもないこの現実を。
光の加減が変わるより先に。銃声の反響だけで、そいつをソナーにして、クリオネの顔を俺は撫でていた。アイツの表情も分かった。声も、震えも、引きつりも、わななきも伝わってきた。
俺を穿つ銃弾のおかげで、俺は耳と音を通じて、あいつの顔を、ゆっくりと撫でることが出来ていた。口付けを降らせたいくらい、触れた顔は愛おしくて悲しかった。
アイツは俺と同じ表情をしていた。訳も分からず必死にクリオネを追いかけていた俺みたいに、クリオネも。
「来ないでって言ったじゃない。遠ざけようとしたじゃない。来るなって示したじゃないっ・・・」
分かってたさ。
「傷つけたくも無かったし、知られたくも無かったのにっ!」
そいつも、分かっていたさ・・・少なくとも、前半部分はな。きっと、俺は、後半をわかりたく無かったんだろう。
自分の過去とも向き合いきれてなかったから。アイツの過去を背負う覚悟も出来なかった。けれど、こんなアイツの声を聞いて、初めて俺はわかったんだ。
どんな過去があっても、俺は。そんなことどうでも善くて、クリオネの事が大好きだった・・・時計屋の奴も、そこに加えてもいい。あの三人で居る今が、大好きだったんだ。過去ごと背負ってもいいくらい大好きだったんだ。
「だって、それでも、こんなでも・・・あんな、マシロを見たら、私は・・・マシロを!」
続いたあいつの言葉は、声にはならなかった。かすかに舌が動いて、声帯の中を、ほんの少しの風が行き来しただけだった。
それでも、俺の耳には聞こえた。俺は。マシロ・トヴァは。ラビットジン=因幡アリスだったんだから。
大好きだって、分かっちゃうじゃない。
はっきり、そう聞こえた。かすかな空気の振動だって、俺は聞き逃しはしなかった。もう身を案じて遠ざけるって事も出来なくなってしまう程大好きだっていう、切ない言葉を。
・・・きっと、仮面ライダーも。助けを求める声を、こんな風に聞き逃さなかったのかもしれないな、そう思った。そうだとするならば、なるほど、そりゃあ、ああも生きるだろうよ。
そうだ。クリオネも、俺と同じように。迷いながら、戸惑いながら。それでも必死に、決断的に突っ走っていたんだ。
皮肉にも、同じ方向に。そして、俺が屋根を踏み砕くほど走っていたのと同じように、振り絞るように心と力を込めて。
火を噴いた携帯も。アイツの全力の足音だと思うんなら、今は暖かくすら思う。
そして、アイツが。アイツの思いにたどり着いたのが。俺が戦った結果だ、って言うんなら。
俺のやったことは無駄じゃなかったのなら。
「ああ、分かってるさ。」
それを聴いた瞬間、俺はそう言おうとした。言えただろうか。無理だったろうか。流石に、届かなかったかもしれない。
第一、受け止める積りでそう言ったが、俺はハリソン・フォードじゃないからな。そこまで上手にいえたかどうか。
OK。
だったら、届けて、アイツを連れ帰る。アイツの過去ごと。自分自身の過去から、ふらふらとしている俺だけど。アイツの過去ごと、アイツを連れて帰るんだ。
ようやく、俺の目的は定まった。
俺は水を蹴った。投げ込まれた石みたいだった体が、一気に水中で自己主張をする。
改造人間の脚力は、馬鹿な鮫相手のシャークトレードをしなくても、海を走るのに何の支障も無かった。全身のバイオ筋肉が躍動し、サイバネティックのギアががちりと噛み合った。
俺は吹っ飛ばされた訳じゃあなかった。死んだわけでも、双六で振り出しに戻る升目を踏んだわけでもなかったんだ。
俺の言葉はクリオネに届いた。そして、俺は改めて目的を知った。
会ってどうするんだ、という迷いが吹き飛んだ。重い足枷が取れたように全身が軽く動く。
軋む骨だの、滲む血なんて、気にもならない。負傷を込みで、ようやく俺は今、今回の事件で絶好調になったのだ。
音を立てて、自ら飛び出す。水面上の音を聞いての、大雑把な直感だったが、どうやら間違っていなかったようだ。
・・・俺達のガレージだ。
フィアットが、ある。
俺は乗り込んで、予備の携帯に手をかけた。時計屋の電話番号を入力する。
「ああ。俺だ。無事だよ。・・・珍しく信じててくれたのか。ああ、いや、いつも心配させてんな、って意味だよ。」
時計屋の声は、俺に安心をくれた。
そして、その言葉は、俺に、燃料を追加してくれた。
「ああ、勿論だよ。はは、【クリオネを取り戻すまで、お前が死ぬとは思えねえ】か。そんなに執念滾ってたか、俺。」
・・・この騒ぎが始まってから、初めて笑えた。
「行って来る。帰ってくる。あいつと一緒に。・・・お前んところにさ。明日からまた迷惑かけちまうけど、ちゃんと映画と酒の代金は払うから・・・よろしくな。」
そう言って、俺は電話を切り、フィアットのエンジンをかけた。
混乱していた頭が、すっきり冴えて、フィアットの小さなエンジンと一緒に回る。
あのクソッタレの海老野郎を、海賊からシーフードに転職させる算段が、頭の中で組みあがり始めていた。