フィアット
この島へ来る道案内であり、最初の腐れ縁の情報屋の卓球が、突然リバイアス通りに連れていけ、と言った。
・・・新しいスイーツの店ができたの。ケーキには興味がないけど、そこのアールグレイが飲みたい・・・。
卓球はそう言ったが、おそらく新しいクライアントと会うのだろう。
俺は、卓球がうまそうにシフォンやモンブランをぱくついてる姿を見たことはない。
ついてなかったのは、俺もそこに用事があったこと。
「まだ、この車乗ってるんだ。」
プアなブレーキ、路面に合わせて頻繁にダブルクラッチをしなけりゃならない運転に、気を回していると、卓球はそうつぶやいた。
「ああ、繊細なブレーキ、細かいギアチェンジ、何よりこのレーシングポジションがたまらねぇ。」
俺は負け惜しみを言う。稼働する車が、これしかない。
「間違いなく、博物館入りの車よ。レーシングポジションは長時間の運転には向いてないし、シートは堅い。何よりも、サンルーフ開けてないと、エンジン音がうるさくてかなわない。」
俺は返した。
「だけど、イタ車だぜ。」
そう、俺がクリオネのこの車を見た時に漏らした感想は、卓球と大差ない。
「大体、雨の日にも、傘さして乗らないといけない車、それがチンクチェントさ。」
だけど、クリオネは無邪気な顔で返した。
「だけど、イタ車だよ。」
卓球を送るために、冷たく、乾いた空気が支配する、ガレージへ行った。
うちっぱなしのコンクリートに、俺の足音が心地よく響いた。
愛用のドゥカティに火を入れようとする。その時、バックミラーに、クリオネの車が映った。
全長3メートルにも満たない、軽自動車によりちっぽけな車が、主人を待つようにちんまりとしょぼくれていた。
フィアット500を使うのは、正直心が重かった。
確かに、今の俺の人生の目的は、クリオネを探すことだ。
しかし、この車には、相棒との思い出がいっぱい詰まっている。
そして、それは、俺の弱い、柔らかい部分にどんどん浸透していき、まるで歯槽膿漏のように、しゃんとした心の土台を犯していく。
相棒探し。そう、命にかけても、やらなきゃならない仕事。
そのためには、センチメンタルな感情が命とりなる。
俺自身含め、これまで何べんも、そのケースを見た。
正直、この車に乗るのは、つらい。
ゆっくりと目をつぶり、涙を誘うような感情とフィアットにしばしの別れを告げる。
だけど、俺の視界の隅に・・・
ドアミラー、まだ直してなかったんだ。
あれは、二人が組んで間もないころ。
「バカ野郎! もっとアクセル踏みこめ! 」
「半世紀も前の車に、無茶言わないで! 」
クリオネは顔全体を口にして叫んだ。
確かに、生きた化石も、クリオネも奮闘した。
このクソ狭い路地を、重いハンドルとクラッチで駆け抜けた。
しかし、900CCそこらのエンジンで、最新のハイブリッドカー。しかもトヨタに追いつくのは無理がある。
くそ! 俺は一息叫んで、ドアを開けた。
速そうな車に飛びついてぶんどる。これしか貧相な頭には思いつかなかった。
しかし。
「しっかり捕まってて! 」
クリオネの言葉に、体の方が反応した。
俺がドアを閉めると同時に、俺は悲鳴を上げた。いや、上げる暇さえなかったかな?
一台ギリギリ分しかない狭い路地! ショートカットにも無理がある!
しかし、彼女はそこへ車を突っ込んだのだ。
たちまち、工場でグラインダーのオーケストラみたいな音が! ドアが悲鳴を上げ、火花が散る!
後ろにすっ飛ぶ、千切れたサイドミラー。
そして!
「ど、どけどけどけ! 」
何事かと思って、路地の窓から顔を出したおばさん。このままじゃ首を持ってくっ!
「ましろ! アンタの足の出番! 」
俺は一瞬で理解した。ドアをけり壊す。
その途端、車はジャンプした。何せ、世界征服をたくらんだ秘密結社の、腐っても改造人間だ。
ウサギモチーフに改造されたオレの足は、600キロぐらいの鉄の塊を蹴り飛ばすのは、サッカーボールでシュートを決めるより簡単なことだった。
車は、あっけにとられたおばはんの頭上を横切り、そして、ビルとビルの間に詰まった。
その時、不思議なことが起こった!
頭から湯気どころか、血のマグマを吹きだしそうな顔でアクセルを踏み続けたフィアットは、ロケットのようにビルの壁面を走った。
壁に押し付けられたタイヤが焼ける音。そして、天井なんか、もう吹き飛びそうなほどこすれてる。
そして、ビルの向こうに姿を消していたトヨタは、見事にフィアットの下敷きになった。
ちっちゃな家、あるいはかわいいボートを彷彿させる車は、動く鉄くずと化していた。
クリオネは、まるで大切なお人形を壊されたように、辛辣な瞳でそれをじっと見ている。俺は煙草をくわえる。次の言葉を言うために、肺に煙草の煙と言う名の勇気をぐっと貯める。
・・・わりぃな・・・。大切にしてた車なんだろ?
クリオネの目のふちに、涙がたまっていた。だけど、それを弾き飛ばすように言った。
ありがとう! 相棒と認めてくれた!
ドアやら天井やらは直したんだが、ミラーは折れたまんまだ。
愚にもつかない・・・いや日常茶飯事なことなんで、この町ではすくに忘れられることの類・・・。
しかし、ミラーは折れている。俺とクリオネが、初めて共同でこなした荒事。
たったそれだけのために。
俺は、稲妻のようにドゥカティを離れ、運転席のドアを開ける。
・・・手荒に扱わないでよ。ただでさえ左のドアは壊れてる。これ以上右のドアまで壊されたくないわ・・・。
追憶のクリオネはそう言う。
「悪いことは言わない。ドイツか日本製にしなさい。」
それが、卓球の別れ際の言葉だった。
「いまだに、ベレッタM1934使ってるやつに、言われたくねぇなぁ。」
「いまだに、シックスガンしか使えないやつに、あたしも言われたくない。」
卓球は相変わらず仏頂面だった。しかし、ふっ、と柔らかい空気が流れる。
俺は柄にもなく照れる。
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