#10

 島の南、戦火を逃れたエアポート。そう、あえて脱出のために、砲撃から外させたのだ。

その片隅にある、巨大な貨物機に乗り込んだとき、マスターは心より安堵した。

途中でいろいろと邪魔が入ったが、結局は私が勝った。

乱暴に床に投げ出した、わが娘・・・もどきノインも、まだオネンネしている。

そして、この中には、一生遊んで暮らせるどころか、小国さえ買える財宝がつんである。もちろん、暗殺の料金も入っているが、暗殺にかこつけて集めてきた金塊、美術品の類。

これさえあれば、あの飛んだ狂信的理想主義者の言葉ではないが、自分の帝国を作ることが出来る。

エンジンを作動させ、しばしそのアイドリングに酔う。

これは、ファンファーレだ。幾度も邪魔が入ったが、やはり、世界へ羽ばたいていける翼は、「私一人のもの」なのだ。

ワインでもあれば、飲みたい気分だった。

その後ろから、ウサ耳の死神が追いかけてくるのを、マスターは知らなかった。

 そのドゥカティは、まるで神様が俺に使わされた天使のように、従順に格納庫に鎮座していた。

 運命の女神も、なかなか粋な計らいをしやがる。俺の改造人間としてのカテゴリーは、中級局地機動戦闘用改造人間ということになる。

 つまり特技は、戦闘バイクを最大効率で運用。路上による高速機動戦闘を行えるってわけ。

 バイクごと跳躍できる強靭な脚力も、周囲全ての音を知覚・分析することで把握できる聴力も、その目的のために与えられた力だ。

 だから、もうこいつを手に入れたら、鬼に金棒、仏に蓮華。弁慶になぎなた、その他なんでももってこい! 

 しばらく目をつぶり、スロットルを回し、アイドリングのエンジン音に耳を酔わす。エンジンの咆哮が、俺のあらぶる心にシンクロしていくのが分かる。

 まるで、鬼神が開眼したように目をカッと開く。そのまま外へ飛び出していく。

 ゆっくりと、貨物機がタキシングに入る。後は、このまま離陸して、飛び立つだけ。

 そのとき、滑走路の横から、大きくバウンドして、大型バイク・・・ドゥカティのモンスター・・・が踊りこんできた。

 またがっているのは、銀髪の殺人ウサギ。銀色の髪と、そしてトレードマークであるところのウサ耳が激しく風になびく。

 エンジンの雄たけびとともに、バイクが一瞬前輪を大きく上げると、そのままファイナル・ストレッチに入る。

 そのとき、トヴァの後ろから轟音が。

 振り返ってみると、そこには武装ヘリがいた。

 コクピット越しに、手負いの鬼神と化したモーリが見える。

 毒々しい炎と、薬莢の雨をはじき出すヘリのバルカン砲。

 大きく蛇行して、それをかわす。その間に、貨物機はトヴァとの距離を離しはじめる。

 トヴァは、腰のM19のグリップに手をかける。少し左手は痛むが、まだまだイケるだろう。しかし、どうやって奴を落とす? 

 ヘリが炎の舌なめずりをするたびに、バイクは派手にフラメンコを踊った。

 手に持ったグリップが汗ばむ。左手でシリンダーを抜き、中の実包を全部落とす。シリンダーを離れた金色の真鍮の塊は、光速のかなたへ消えていった。

 死の綱渡りは続く。迫り来るバルカン砲の弾を避けるため。再び大きくバイクを右へ傾ける。頼みの綱は、胸元に隠してあるKTW弾のみだ。

 しかし、いくらマグナムとは言え、拳銃弾だ。装甲ヘリに通じるだろうか。

 もしも、万が一コクピットの風防ガラスをぶち抜いても、その破壊に全エネルギーを使ったひょろひょろ弾が届くだけ。人体に当たっても、致命傷となるわけが無い。しかも、相手は怒りに我を忘れている。一種のハイ状態なのだ。そんな奴にかすり傷を負わせても、ますます脳内のドーパミン活性化に手を貸すだけだ。

 ついに、貨物機が飛び立った。しまった! 後ろから来るヘリに気を取られすぎていたトヴァ。慌ててまっすぐにスロットルを入れなおす。

 そこを狙い済ましたように、襲い掛かるバルカン砲。タイヤがはじける音がして、回転する車輪とともに回るゴム片が地面にたたきつけられる。タイヤをやられたか! たちまちバイクは、大型直下地震に襲われたように激しく揺れだす。

 その間にも、ぐんぐんと高度を上げ始める貨物機。くそったれめ! バイクの機首が上がる。

 トヴァは、たぎる熱い血を、アドレナリンを、全精力を足にたたきつけて、バイクごとジャンプさせる。

 ぐんぐん近づく、バイクと貨物機、後五メートル! 四メートル! 

 しかし、後一歩というところで、バイクの揚力は力を失い、重力の鎖にとらわれ始める。

 後、一メートル、いや、腕一本! 腕一本だけの距離でいい! バイクのシートに、もう、半ば立ち上がってるトヴァの歯が、ぎりりとかみ締められる。

 そこに襲い掛かる、いや、まるで哀れな獲物を丸呑みにしようとするジョーズのように、武装ヘリ。鼻先をぬっと突き出し、バイクにバルカン砲の照準が向けられる。

 意を決して、シートからダイブするトヴァ。目指すは貨物機の後部。

 それと同時に着弾! バイクが大爆発。その勢いで、トヴァの体は紙くずのようにあおられた。

 これを待っていたのだ! 一瞬、貨物機が下に見える。これならば「リボルバーにKTW弾を突っ込んで」お釣りが来る。

 腕の痛みは、もうどっかへ吹っ飛んでいる。

 今や、M19のフロントサイトとリアサイトは、コックピット上にいるモーリと直線上に載せられている。

・・・S&Wリボルバーは、ダブルアクションで撃つと、撃鉄が落ちる寸前でシリンダーが止まる。そこで最終的な狙いをつけ、引き金を絞るんや・・・

 カジモドの声が、脳裏によみがえる。

 そして、ほとんど一発にしか聞こえない六発の銃声!

 そして、着弾はすべてコックピットの風防、モーリの顔面に集中した。

 そして、その弾は、勢いを殺され、かすり傷程度にしかならない威力しか持たないはずだった。しかし。

 うぎゃゃゃゃぎゃぎゃばああああ! 

 コックピット越しでも、奴がションベンをちびるほど、盛大な悲鳴を上げるのが分かった。 

 奴は顔を抑えてよがり狂う。目にはかすり傷なんてない! 

 モーリの手を離れた操縦棹が、大きく傾いた。

 そして、ヘリは、一回転、二回転! 派手なブレイクダンスを踊りながら、シメは地面に衝突し、すさまじい炎の華で場を飾った。

 俺の方も、再び重力の罠が俺を捕らえた。どんどん近づいてくる貨物機。しかし、その壁に、俺は右腕から飛び出した高周波ブレードを突き刺した。

 牙を持たないウサギに仕込まれたせめてもの牙。

 そして、トヴァは、それを手がかりにして、一番手近な窓を探す。

 結局、俺がたどり着いたのは、飛行機の後部にある貨物室だった。

 戦車が余裕で二台か三台入れそうなスペース。そこには、小山のように、金塊が並べられていた。

 その隙間を埋めるように、木箱が点在している。美術品でも入ってるんだろ。

 俺は、それらを眺め回した。木箱の一つに腰掛けると、煙草に火をつける。

 もう一年くらいは、禁煙していたような気分だ。

 深いため息とともに吐き出された煙草の煙は、ここにあるすべての金塊みたいに、空虚だった。

 こんなもののためにくたばった、汗臭いブ男たちの方が、よっぽと価値があったぜ・・・。

 俺は、おもむろにトリガーバー付きオイルライターを取り出した。ガンスピンのように一回転させると、弱弱しい炎がついた。そりゃ、ここの島へ着てから、一度もこいつにオイルを入れてなかったから、当然か・・・。

 もう少し・・・がんばってくれよ・・・。心の中で呟きながら、手近に燃えやすいものを探す・・・そうだな、ゴッホの油絵でもあったら、最高なんだが・・・。

 最後のご奉公だ。これが終わったら、たっぷりオイルを食わせてやるからな。

「止めろ! 」

 オカマの声をかなぐり捨てた、男の声がした。

 振り返ると、はげ頭のスーパースター、神が登場した。

「まったく、ゴキブリみたいにしつこい女だな。君は・・・。」

マスターは言った。

「そりゃ光栄だね。なんせ有史以前から生きぬいてきたスーパースターだ。あやかりてぇもんだ。エレンはどこだ。」

俺は聞いた。

マスターは、けしゃけしゃ、と、また風船から空気の抜けるような声で笑った。

「君にとって、あの女は、そんなに大事なものなのかい? まるで、悪い魔法使いから、姫君を奪還しに来た騎士みたい・・・。」

俺は、やおらM19のトリガーに力をかける。照準は奴のドタマ。それだったらそれでもいい。とにかくコイツは、俺のぶち殺すリストに入っている。余計な駆け引きも軽口もいらねぇ。死ぬのが早くなるだけだ。

 しかし、マグナムは、鉄と鉄が打ち付けあう、鈍い音を立てて、沈黙した。

 マスターは、小声で・・・しかし、最後の方では、俺に聞かせるように笑いこんだ。

「残弾を確認してない・・・! 拳銃使いとしては、基本中の基本。最低のミスじゃなーい! 特に、六発しか入らない、博物館行きのシロモノ使ってる奴にとっては! 」

 ああ、まったくだ。暴れながら数を数えるなんざ、まだまだ慣れちゃあいなかった。撃ったのが5発か6発か、曖昧な状態での賭けだったんだが・・・怒りが奥歯を噛み潰しそうになる。奥歯を噛み潰したら銃弾が装てんされるんなら、俺は総入れ歯になってたろうな。

「・・・姫君を救い出す騎士・・・たった六発の弾丸に命をかけるガンマン・・・。どちらも、もう時代遅れ。その魂の後継者であるあなたは、だからこそ、殺しなんてクズなことをやって、地べたを這い回ってるんだし、着てるものはホームレス直前だし、こんな島に流れてくるしかなかったのよ! 」

 ひとしきり笑った後、奴はデザート・イーグルを取り出した。

「でもあたしは違う。これから海の家の主席に会って、夕方には、キャビアとロマネコンティを飲ってる。もちろん、あんたのコトなんか、便所に流したクソよりも思い出さない。私は勝者だからっ! 分かった? 分かったら、こっから降りて。負け犬。」

 ダラ長いトリップめいた未来妄想を垂れ流しながら、奴が手元のパネルを操作した。重厚な機械の音とともに、貨物室の重い扉が開きはじめる。

 恐ろしく・・・・初夏の女神の祝福を受けたように、恐ろしく澄んだ空が見えた。どこかで、ウミネコかかもめが鳴く音がする。こんなクソ野郎のスイッチで出てきたなんてのが嫌になる程、魔法じみた綺麗さだった。

「さよならの言葉をかけないと、降りられない? 」

 そもそもてめえの言葉を聞く気なんざねえ。思考の一部を何とかならないかと回しながら、同時に別の一部で俺は、煙草を吸うかどうか迷った。いや、残念ながら現状じゃ逆転の暇も煙草を吸う暇も、与奪えそうにねえな。

「じゃ、さよなら。」

そして、奴が別れの号砲を鳴らそうとした。

その時。エレンが飛び込んできた。

ドアが激しく開けられる。とともに、9mmの激しい乱射。

身を翻すマスター。

「やっとタマが出来たかっ! だけどっ! ワルサーって銃はねっ! 旧式の銃だから、サイトが狙いにくい! 」

「このっ!」

いいながら、エレンの方に転がる。咄嗟に動きを妨害しようと投げつけた俺の銃はその上を通り過ぎた。屈んでるやつは当てにくい、くそ、レクチャーが刺さる。

マスターが床を転がる。空しくその後ろをうがつ弾丸。

「細い銃身は、スライドの影に隠れて、とっさの時に狙いがつけにくい! 」

ブレイクダンスのように、床を転がり、障害物をたくみに盾にして、エレンに接近するマスター。低く跳んで踏みつぶすようにそいつに一蹴りを加えようと俺は奔り。

「があ、あっ!」

むなしく床を凹ませたあと、脛を銃弾で削られた。外れた弾丸何発かで、服が何か所か弾ける。

くそ、どんな姿勢でも、引き金を引けば弾は出る、ってか!挙句、もともとの腕前に例の薬を加えたせいか、なんて狙いだ!

「左側に飛ぶ薬莢は、視界を一瞬隠してしまうこともある! 」

そして、マスターの蹴りが、ノインのワルサーを持つ手を蹴り砕いた。

完全にホールド・オープンしたワルサーは、命を終えたように、倒れるエレンもろとも床に転がった。

「あんたと同じ、博物館行きの役立たず、ってことさ・・・。」

もんどりうって、壁にたたきつけられるエレン。もはや残る抵抗の手段は、にらむだけで相手を殺せそうな視線で、相手をにらむことしかなかった。

しかし、それでマスターが死んでくれる、などという夢みたいな展開は無かった。マスターは、こっちにデザートイーグルを向けながら、片手で器用にノインから、わずかに抵抗してもがく手を振り払って、予備のマガジンとワルサーを引ったくり、、拾い上げた。クソ、この足じゃ、届かない。

「・・・あんた、絶対今度会ったときはブチ殺そうと思っていたけど・・・はへはは(止めたわ)。」

口でワルサーを銜えて、片手で空のマガジンを捨てて、新しいマガジンが叩き込んだ。氷を背筋に差し込まれるような、ひんやりとした音。

「ノイン。今からありったけの9mmを、あんたの手足にぶち込んで、切断してあげる。その後に、このふざけたウサ耳を海の中に落とす。あんたは、醜く老い果てるまで、この処刑を、擦り切れたビデオテープ見るみたいに脳裏に繰り返して、嘆く。そして、一生私の心を和ませる悲嘆を聞かせ続けてくれる。こういう幕切れはいかが? 」

 奴は、そう言って笑った。まるで無垢な、子どものように。

 反吐が出る。このクソ野郎に、このクソ野郎を殺せない自分に。耳の毛が逆立つ程腹が立って、耳も頭脳も焼けこげそうだった。

 エレンは、その場にがくりと伏したまま、動こうとしない。

 ・・・弾けた胸ポケットから、煙草とライターがこぼれかかっていた。今までの奮闘を反映したように、最後の一本は、酔っ払いを連想させるくらいよれよれだ。

 けど、そんな、よくやったね頑張ったねなんてのは、いらない。今いるのはライターだ。そして、火じゃない。

 胸ポケットに寿命を迎えさせながら、俺はライターを礫に変えた。同時に、脛を抉られた足に無茶を言わせる。狙いは野郎の眉間だが、それで殺せなかった時に、殴り殺せる可能性を少しでも積むために走れ・・・!

硬い音、苦悶の声、そして銃声。

「!・・・やぁっぱり、あんたから死にたいようね!」

 姿勢に無理があったのか、足に無理があったのか。ライターはデザートイーグルを持ったほうの手の甲の骨を砕いたが、そのデザートイーグルが手から取り落とされる前の最後の一発が俺の肩を射抜いて俺を壁にたたきつけた。マスターは怒り狂った目で、エレンのワルサーをこっちに向けた。

「さよならを言うことは、いつも時間がかかる。手遅れになるくらい。」

 そのとき、エレンがささやいた。

「ワルサーP38・・・時代遅れのオモチャ・・・。あたしと同じ・・・。その弱点は・・・。」

 何だ? 何を言ってるんだ? おそらく、エレンは、自分にしか聞き取れない声で・・・いや、自分自身さえ聞き取れているのか不明な搾り出す声で謎かけをした。・・・俺に向けて、人差し指の爪の剥げた痛々しい手を震わせ受けながら。その手は、蹴られたほうじゃない。

 マスターは、おそらく耳に入らなかったんだろう。耳に入っても、それを見る事は出来なかった。オレへのメッセージ。

 この謎を、引き金がひかれるまでの間に解けってか?

 間髪入れず、火薬の破裂する音がした。


 

 それから、目に入ってきたものを、系統立てて正確に描写することは難しい。少なくとも、常に俺は常に物事を断片的に捉えるしか脳みそが無かったし、現実もほとんど、断片で出来ている。

 とりあえず、目に入った物から記していくと、まずは、右目にワルサーP38のスライド・デッキが突き刺さったマスター。

 そう。ワルサーP38の弱点。それは、スライド上部にある、スライド・デッキという部品が吹っ飛んで、射手の方へすっ飛んでくるということ。

 後から聞いた話だが、ワルサーP38の改良型ワルサーP4では、それを嫌って、スライドとその部品を一体化している。ましてや、大戦を生き残った年代ものは、その危険性も高くなる。くわえて言えば、ワッツーシゾンビのアジト襲撃から、この島での二丁拳銃の撃ちあいまで、この銃はメンテも無しで「酷使」されている。・・・そして、あの指だ。銃を奪われることを読んで、暴発の可能性を少しでも上げようと、爪が剥げる程、力を振り絞ってスライド・デッキとその周辺の部品を捻じ曲げようとしたんだ。もちろん、そんなことで暴発の可能性が上がるかどうかは、0.何%か、あるかどうかかもしれないが。数%でも、0.何%でも、積み重ねる事に価値はあったのだと、この現実が示していた。

 奴は、エレンの銃に、裏切られた・・・いやさ、エレンと俺に負けるんだ。

 何が起こったか、認識できずに、突っ立っている奴。

 俺はすかさず、手元のパネルを操作した。銃口に睨まれながら、もしもそれが一瞬でもそれた時のために、一発逆転のチャンスがあればと探した手がかり、金塊を止めていたフックを外すレバーを。

この世に帰ってきてから、どうにもあやふやだった俺が、もう一度この世に焼き付いた数秒だった。

 マスターは、自分の手を真っ赤に染め上げた血のりを見た。じょじょに、脅威と恐怖がマスターを支配したらしく、マスターの残った左目が、大きく開かれた。

 しかし、何か叫ぶ前に、金塊の山が、奴を押しつぶすように外へ押し出す。まるで、悪い魔法使いから、自由を求めて脱出するとらわれの姫君のように、金塊は散った。

 青い空に、青い海に、そして初夏の日を体いっぱいに受け止めながら、金色の花びらが散っていく。

 まるで、この馬鹿げたカーニバルに、ふさわしい幕だと言わんばかりに、太陽をそのまま溶かし、はじけさせたような花びらが散っていく。

 続けて、俺が見たものは、ついに倒れ伏したエレンだった。

 俺は、エレンに飛びついた。がさつを絵に描いたような自分でも、こんなに優しく、丁寧な扱い方が出来るんだ、と思わせるほど優しく、奴の上半身を起こした。

「あたしの・・・夜が・・・はじけた・・・。青い鳥・・・。飛び去った・・・。」

 エレンは呟いた。ああ、だけど、その体は・・・かき抱いたその体から、魂が出て行くのがありありと分かるほど、奴の暖かさが失せていく。

「・・・莫迦ね。あたしの夜は、とっくの昔に終わっていたのに・・・。青い鳥は、いなかったのに・・・。」

「莫迦野郎 それはお前が目を閉じていたからだっ! 青い鳥はまだいるさ! 羽ばたくのが怖かっただけ! 見たことも無い、無限の空が怖かっただけさ! 」

 エレンの暖かさが・・・魂が・・・どんどん抜けていく。

 畜生、神様にだって、この子の残りを渡すもんかっ! 俺は、絶えず、指から零れ落ちる水をかき抱くように、エレンの中の、ありったけの残った魂をかき集めるように、奴を抱きしめた。

 奴は、俺を見た。笑った。もうそこには、狼の面影は無い。これから向かえる新しい世界に、喜びに打ち震える子犬の目立った。

 だけど、ああ、だけど。エレンの体からは、魂がどんどん抜け落ちてる。止められない! いくら水をかき抱こうとしても、指の間から、どんどん抜けていってしまう!

 エレンは震える手で、ペンダントを差し出した。

「・・・スイス銀行の口座・・・。そして、この島を出たら、アインのケアをする予定だった、施設名が・・・この中に・・・。」

「莫迦っ! お前の翼は、まだここにあるだろう! これから羽ばたくんじゃないか! 」

 エレンは、初めて見せる、心からの微笑で、続けた。

「ノインを・・・私の青い鳥を・・・よろしく。」

莫迦野朗、そんなことは自分でやれよ。叫んで、エレンを揺り動かした。しかし、エレンは、もういなかった。

さよならを言うのは、えらく時間がかかるし、言うときには、いつも手遅れだ。

その原因は、世の中のすべての奴が、勝手気ままに生きてるからだ。

俺の、どす黒く盛り上がってくる、向けようの無い神様への苦情のため、手近にあった木箱が一つ、犠牲になった。


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