Vendetta
辺り一面を激しい炎が覆い尽くす中、少年は立っていた
。父親に届けるはずの弁当を両手に抱え、ただ呆然と。
足元には、何やら黒い物が燻っている。まだそこかしこ
に火のついているそれは、人の形をしていた。
少年はちろちろと頬をなめる炎の舌など感じていないか
のように、その黒い物を、じっと、見た。
しばらく見ていると、彼の目に涙が浮かんできた。肩が
小刻みに震え、膝はガクガクと音を立てそうだ。とうとう
少年はぺたりと座り込んでしまった。
その時、黒い物の口が、微かに動いた。
「りゅ・・・」
少年は、はっとしたように黒い物を見た。黒い物はゆっ
くりと口を動かし、掠れるような声で、
「りゅ・・・う、ま・・・にげ・・・」
と言い、ぴたりと動かなくなった。
「りゅうま・・・」
少年は、黒い物が言った言葉を口にした。
りゅうま・・・跳田 竜馬。それは、少年の名だった。
跳田 竜馬少年は、母親と共にコンビナートに来ていた
。ここは父親の職場であり、竜馬も何回か遊びに来たこと
がある。今日は、父が持っていくのを忘れた弁当を持って
きたのである。
母は自分一人で行けるから、と言ったのだが、竜馬は夏
休みなので時間が余っていたし、久しぶりに働いている父
を見てみたいとせがんで、一緒についてきたのだった。
母の運転する車で30分も走ると、コンビナートにつく
。顔馴染みの職員達に挨拶をしながら、竜馬と母は父の待
つ作業場へと歩いていった。
その時。
激しい爆発音と共に、辺りから炎が噴き出した。
炎は凄まじい勢いでコンビナート全体を喰らい尽くし、
辺り一面を鮮やかなオレンジへと染めかえた。
突然のことに戸惑う竜馬は、自分の真横から噴き出して
きた炎に全く気づかなかった。
しかし、母はそれに気づいた。今まさに我が子を飲み込
まんとしている炎に気づいた彼女の行動は、信じられない
ほど素早く、そして「我が子を守る母」として正確なもの
だった。
彼女は竜馬を突き飛ばし、迫る炎を自らに受けたのだ。
我が子の命と引き替えに自らを差し出した彼女は、獰猛
な炎の牙に噛み砕かれ、よろよろと踊るように2歩、3歩
と進み・・・そして、静かに倒れこんだ。
彼女が最期まで苦悶の呻き一つあげなかったのは、命を
捨てて守った我が子に、少しでも恐怖を与えまいとしての
ことだったのだろう。
「かぁ・・・さん・・・」
黒い物の顔をじっと見ながら、竜馬は呟いた。黒く焦げ
てはいるが、その顔は紛れもなく、彼の母親だった。
「・・・」
無言で、竜馬は母の顔に触った。焼け付くほど熱かった
が、竜馬は触った。
その熱さの中に、なぜか冷たさを感じた。
「かぁ・・・さん!? かあさん!!」
耳元で叫んだ。悲痛な叫びを、祈りをこめた叫びを。し
かし、母はもう、ぴくりとも動かない。
竜馬の中で、何か、糸が切れたような音がした。
「うわぁぁぁぁぁぁ! かあさん! かぁさぁんん!!」
「竜馬! 大丈夫か!?」
泣き叫ぶ竜馬に、声をかける者があった。竜馬は涙で霞
む目を凝らし、声の聞こえた方を見た。
作業場から飛び出してきた父が、こちらへ駆け寄ってき
ていた。
「竜馬! 動くと危ないからな!」
父親はそう言い、炎を避けながらこちらへ向かってくる
。距離はさほどでもなかった。
ぐらり
その時、不吉な音が響いた。竜馬は、それが死神の笑い
声に聞こえた。
竜馬は上を見上げた。鉄骨の束がロープに吊られている
。そのロープが、炎で焼き切れそうになっていた。そして
、鉄骨がぐらぐらと揺れるその下には、まさに自分の父が
いるのだ。
「竜馬! すぐ、行くからな!」
父はそれに気づいていない。竜馬は本能的に危機を関知
し、父に向かって「危ない」と言おうとした。
竜馬の口が開く直前に、鉄骨が父を踏み潰した。
「とぅ・・・さん・・・?」
ついさっきまで父がいた場所には、大量の鉄骨があるだ
け。ようやく開いた口をかたかたと震わせる竜馬。
べちゃり
鉄骨の方から何かが飛び、竜馬の頬に音を立てて当たっ
た。竜馬はそれを手で拭い、見た。
鮮やかな赤の、ぶよぶよとした小さな塊。
竜馬は、それが何なのかわかってしまった。
「とぅ・・・さん・・・!?」
それは、父親であったものの、一部だった。
「・・・」
竜馬は無言で、その塊を見て、そして、黒い物を見た
。変わり果てた父と、変わり果てた母を。
「とうさん・・・」
父は時には優しく、時には厳しかった。野球が好きで
、竜馬を将来プロ野球の選手にするとかで、日曜などに
はよくキャッチボールをした。
「かあさん・・・」
母は大らかで、いつもほがらかな笑みを絶やさなかっ
た。料理は大の得意で、竜馬は母の作るハンバーグが何
よりも好きだった。
「とうさん、かあさん・・・」
竜馬の頭の中で、様々なものがぐるぐると回る。野球
のボール、ハンバーグ、グローブをはめた父、エプロン
をかけた母、両親の笑顔。
ふと、我に帰る。
手には肉片、足元には焼死体。
それは、紛れもなく、彼の両親。
竜馬の心の、一番深いところ。そこに、蓋をされた井戸
があった。
その井戸からは、とてもいやなものが出てくるので、竜
馬は無意識の内に蓋をしていた。時々、そのいやなものが
顔を出そうとすると、竜馬の無意識は蓋を強く押さえた。
しかし、今の竜馬には、蓋を押さえる力は無かった。井
戸の中のねばねばした黒いものは、凄まじい勢いで噴き出
した。
井戸から溢れ出したいやなものは、たちまち竜馬の体中
に行き渡り、彼を喰らい尽くした。
「う・・・うぅ、う・・・」
途端に、彼の口から呻きが洩れた。
「う・・・うあぁ・・・うわぁぁぁぁ!」
呻きは叫びに変わり、やがて絶叫になった。
「うわああああぁぁぁ!! とうさん、かあさん!!」
辺りの炎をかき消さんばかりの絶叫が響く。
その絶叫の間、彼のぼやけた視線はある一人の少女に
注がれていた。
炎の向こう、ずっと離れた場所。数人の黒づくめと共
に立っている、金髪の少女。
竜馬は、なぜか、この少女がこの災厄の元凶に違いな
いことを直感していた。この少女が、両親を奪った仇。
この少女が・・・この女が・・・この・・・
「うわああああああああ!! あああああああああ!!」
地獄の業火に焼かれながら、竜馬は叫び続けた。全身に
まわった、いやなもの・・・憎悪と狂気というそれに、体
を支配され、彼は絶叫し続けた。両親の仇の女を、その殺
意をはらんだ眼に焼き付けながら。
跳田 竜馬の20年越しの復讐が始まる。