まず最初に言っておく。

 

我が輩は富野由悠季という男が
嫌いだ。

 

・・・イデオンが嫌いだ。ニュータイプに「人の革新」という要素を持たせるのが嫌いだ。シャア・アズナブルが嫌いだ。アムロ=レイも嫌いだ。

ありとあらゆる意味で、我が輩の美学にそぐわない。

「俺は正しいぜ」という雰囲気が感じられるのに、言いたいことを作品に出しもしない。存在意義を全うさせることもなく、
時間が来たら皆殺し。

「馬鹿は死ななきゃ直らない」と「イデオン」のテーマを問われたとき冗談めかして言ったと伝えられるが、

「死ななきゃ直せない方は百倍馬鹿だ」

「人の革新」とほざいても、感情や対立や人であることのしがらみや現実全てを

「見下す」

という形で突き放しているが、その「見下す」という視点そのものが

「人であることのしがらみ」

であることに気が付いてもいない。

人は、人であるが故に美しいのであり、己の存在を否定するのは「人でも神でも獣でもない、ただのたんぱく質
の固まり」だ。

もうちょっと詳しく、という場合はこちらへ。

庵野秀明を批判していた割には、はっきり言って

「同じ穴の狢」

である。方向性は違うが。

 

あえて、彼が作り、倒そうとしたものの言葉を借りるなれば

「我が忠勇なる闘争的研究機関戦友たちよ、今やガンダムにおける富野由悠季の主張の半数が
我が批評によって宇宙に消えた。

この雄叫びこそ我らの魂の証である。
決定的打撃を受けた富野由悠季にいかほどの知名度が
残っていようとそれは既に形骸である。
あえて言おうカスであると!

それら軟弱の集団がこの論理を抜く事は出来ないとわたしは断言する。
人類は人の革新などという幻想を捨て、この世界を煉獄と知りながら尚立つことにより
初めて永久に生き延びる事が出来る。
これ以上逃げ続けては人類そのものの存亡に関わるのだ!

富野由悠季と無能なる追随者共に思い知らせ、明日の未来の為に
我が闘争的研究機関、同志は立たねばならないのである。」

 

故に。

好きなガンダムは0083、W、G、ZZ、08となる。

富野由悠季が関わっているのはせいぜいZZ、それも影響力はきわめて薄い。

なんというか、これでよく分かるとおり、我が輩は「生気(魂?)」「人間(雄々しくあがき生きる者としての)」というものを重んじる傾向がある。

へたれな気抜けが嫌いなのだ。故にこそ熱い漢がデラーズフリートとして横溢する0083、アグレッシブなキャラが多い(完全
平和という目的はともかく、その過程には共感する)W、なにをかいわんや、真の超熱血G、いい意味で泥臭い08、そしてニュータイプであるはずのジュドーが同じニュータイプであるはずのハマーン・カーン(ある意味で、もう一人の主役。オープニングでも目立っていたし、ジュドー二対する大人として、歩み寄り戦いながら完全に重なり合わない者として存在し、その両者をまとめ高めた)を、「分かり合えないままでも救おうとし」ハマーンは、「その意をくみながらも自ら滅びを選ぶ」という結末により、結果的かつ解釈的ではあるがそれまでの「ニュータイプ」否定につながったZZ(違うそうじゃない、という意見も勿論あるだろう。しかし我が輩はそう感じたのであり、あらゆる作品はそれを受け止めた者の心の中に、受け止めた者の意志のレンズを通してしか存在し得ないのだ)

 

 

おまけとして、初代およびZも「ランバ=ラル」とか嫌いではない人が多い。幻想でしかないニュータイプのまがい物として作られた不幸な「強化人間」
(フォウ=ムラサメなど)も、興味深い。

 

他の作品に対してどうなのか見る。