「種子と運命から見るガンダム〜第二次ガンダム論並びにSEEDシリーズ所感、反逆者風味」
0.序説
我輩は見る。
Tアニメ・機動戦士ガンダムSEEDを。その続編たる、機動戦士ガンダムSEED DISTINYを。
我輩は聞く、そして読む。
それに対する世間一般のガノタ(ガンダムおたく)達の反応を。狂態とでも言うべき過剰な敵意と反対を。
そして考え、ここに言葉を発する。ここに宣言を発する。
あえて支配的な言説・・・機動戦士ガンダムSEED並びに機動戦士ガンダムSEED DISTINYは駄作であるという意見に対して反旗を翻す、と!
我輩は反逆者にして悪の名乗り手故、どうしても・・・支配的な側、勝ちの見えた側より、負けが込んでいる側につきたくなってしまうマイナー趣味があって、な(苦笑)。
(ガノタが支配的側かどうかは諸説あろうが、一番声高叫び、それ故に「ちょっとした通人の領域でのさばっている」のは事実と我輩は見る)
その詳しい事柄の前に、一つ我輩のスタンスとして言っておきたいことが一つ。
我輩は、監督並びに脚本家、声優、制作スタッフやら作品の背景、商業事情、その他諸々に関して言及するつもりも考慮するつもりもないと言わせて貰う。(大分混沌とした放言を散見するが、成る程怒るべきと捉えられる言葉も見受けられる。しかしああまで野放図では、むしろ真面目に反応しようとするものを煙に巻きおちょくって喜んでいるような疑惑すら感じられリアクションのしようがない。
それらが作品を語る上で必要不可欠であるという意見に我輩は反対する。何故ならば、公開された瞬間に作品は作り手の手を放れ、作品そのものと「その作品を見た者の心の中の印象」との関係の中においてのみ存在するようになるからだ。
作り手がどのような思いで(崇高なそれであれ卑俗なそれであれ)作った物であろうと、人間という個人間の情報を完全な共通認識でもってやりとり出来ない群体においては、それぞれの受け手の中でそれぞれの印象でもって見た作品が再構成される。すなわち1の作品と10万の視聴者がいれば、そこには十万通りの解釈によるその作品の増殖があるのだ。
いわば芸術・創作の類とは単に作り手のみの行為ではなく、作品と受け手の間、受け手の心の中においても展開されるものであると我輩は考える。
すなわち!おおよそ作品を見、感じることの大半は「受け手次第」ということになる。であるならば!わざわざ不愉快な思いになることはあるまいが!と(無論視聴者による作品享受の取捨選択による淘汰は必要であろうが、それとは別の領域において。何故なら、全てを単純な取捨選択に任せ作品ごと切り落としていては、その中の「見えにくい良い要素」まで諸共に消してしまうから)我輩は考えるものであるが故に。
無論、我輩は悪の博士を自ら持って任じ、傲慢を持って運命の波濤を踏破する者であるが故に、これから挙げる諸要素について「我輩ならもっとうまくやってのけたぞ!!」と言う気持ちは無いわけではないが、な。改良しうると言うことと、評価しうると考えるのは、あくまで共により良くという(改造と解釈という違いはあれ)考え方なので、矛盾は無かろうと我輩は考える。
もっとも、我輩は過去における作品感想において、はっきりと嫌いであると明言し、批判したことも数多い。
我輩は、敵対的に作品に接すること全体を否定するわけではない。ことこの作品に対してはそれが多すぎないか、といいたいのだ。釣り合いをとる意味で、あえてこう言わせ(書かせ)ていただく。
以上(これは前のアニメ感想「ガンダム、人それぞれ」でも言ったが、今回はさらに詳しく提示する)を前提条件として、我輩の言説に耳を傾けて(というか読んで)貰いたい。
(追記として、それぞれのキャラクターについて語る時、それぞれのキャラクターが「まるで実在する人物であるかのように」、あるいは「その心理を実在の人物を分析するかのように類推する」向きが強いが、それは「物語を「体験」する上での見方」という点から考察している故、と解釈していただきたい。)
1.まず作品としてのSEED並びにDISTINY
「これはこれは大旦那様、御免下さい」
(小説「ファウスト」より、メフィストフェレスのセリフ)
えー。まず、単体としてのこれら作品について、その全体的な形から語らせてもらう。(単体としても何も作品は常に単体であろうとはこの場合言えない。先に述べた鑑賞者と作品の関係に加え、既にガンダムはシリーズとして存在してしまっているから。)
実際問題、世間(というか一部のディープなガノタ)の意見の通り、この作品ははっきり言うとアラが多い。それは我輩もそう思う。細かい設定や伏線の生かし方、描写方式において、かなりミスが目立つ。(もっとも、そのアラの中にも、「理由を解釈できるアラ」もあるのだが。それは後に。)
ことに続編DISTINYにおいてその向きが強く、ごちゃごちゃしすぎて物語の主軸が見失われ、主役が誰なんだかというか前主役が新主役を食うという現象が発生したのは拙かった。弁護するつもりはないし、無茶な持ち上げを行うつもりもない。
だが、群像劇として、素材としては悪くない、と、我輩は思った。(そしてこのアラの多さ、様々な要因による混乱は、ある大きな意味を結果的に為したと我輩は思う。詳しくは後述。)
底なしの憎悪の連鎖、滅びを望む悪意の漠然とした形、守旧者の怨念、革新者の傲慢が混じり合う中、それぞれには平和を望み、幸せな明日を願いながらも、嘆かわしくも対立し、愚かしくも過ち、限られた知性と限られた能力をもってそれぞれに間違いと正解の両方を含んだまま生き足掻き、殺し合い、偽善偽悪の範疇を抜けきれず、己の心すら騙してのたうち回る・・・
細かいところは後述するが、9/11テロ事件以後のガンダムとして、この形はまさに現実の写し鏡としてのリアルロボット物の「あるべき形態の一つ」ではないか、と我輩はむしろ声を大にして言いたい!!
結論も出ず先も見えずのストーリー展開は、まさにこの現代の風刺であって、リアルの極致ではないか。
そう。混乱した筋書きのこの作品シリーズ・・・
「現実の戦争には脚本など存在しない」と見るならば、まさに究極のリアリズムを体現したとは言えないだろうか。
そうであるならば、リアルロボットものであるガンダムの一作品として、誉めるべき要素であるか、少なくともけなすべき要素ではないと言うことが出来なくもない。
しかしまあ、そうした混沌とした状態、それは醜く愚かしい、とは言える。リアリズムとは畢竟、現実の追認という諦念の要素が強いが故に。
我輩は本来的に、高くあらんことを望む。そうあったからこそ人は獣の領域を脱し今に至ったのであり、そうあるからこそ歴史は動いていくのだから。そして、そうあるからこそ、人は人を守り、愛し、導き、共にあることが出来るのだから。
だが同時に我輩は、「人間の愚かしさ」をも抱擁しうる深き愛を有せねばならぬ、と考える。
それが無くば、例えば本質的に人を愚かと嫌うものが為政者となっては、愚かなる者を無理矢理にでも教化せんと、それでも無理なら粛清せんと、非道がなされぬ訳がないと歴史の様々な例が嫌悪の暴走を示すが如く。
人の愚かしさを認め、その上で自分を含む人を愛し、自分に出来る範囲で普段の決断を続ける・・・人の未来は、この当たり前の行動をいかに多くの人が取りそしてそれが良き方向へ人を導くか、いかにその懸命なる命の輝きを他者に見せ、また他者にも輝くことを促すことが出来るか、それによってのみ決定される。断じて、愛無き専横者の己が愚昧さを認識せぬ英断もどきではないのだ。
それ故に、そしてそこから考えて、愚かしさを糾弾する者は、大きな勘違いをしていると我輩は考える。彼等は、自分が賢いとでも思っているのか?それは断じて否だ。人は皆愚かだ。我輩も彼等も、民草も政治家もな。それが証拠に、人は行おうとした行動を必ずしも完全にこなせはしないのだ、常に。人の行動は、その人の認識する範囲で精一杯その人間の誤謬を含みうる認識の内での正しさにすりあわせたとしても、別の何処かで破綻を産んでいるかもしれぬ。人は、全ての因果を知り完全に正しいことを行うことは出来ぬのだ。当然だ、いもしない全知全能の神ではないのだからな。
そして、その愚かしさを批判しようとするものは自らの愚かしさに気付かないが故に一つ過ちを冒している。人の歴史を断絶で捕らえるという視野の選択ミスだ。自らと「愚かな人」を断絶させ、その上で断罪することなど出来はしない。人の歴史は断絶などしてはおらぬ。時代は変化などせぬ。ただ果てなき過去から全ての因果を引きずり続いてきているだけだ。その時代時代に、様々な人間が、欲望、倫理、正義、反逆など様々な観点から、それぞれに精一杯のところで決断を下しながらな。それを断絶せしむることは、誰にも出来はしない。
人に出来ることは、そこに新たな決断を付け加えることだ。断じて、それまでの連鎖を否定し、世界をひとときに変革しようとするが如き所行はまかりならぬ。
なに?我輩もまた愚かであるならば、この論は無意味ではないかだと?無論その通りだ。我輩とて何割かは間違っていよう。だが人は、その何割かの過ちを見抜く力などなく、それぞれに精一杯の論をぶつけあうことしかできないのだ、先程言ったとおりに。故にこそ、我が過ちを含む論理と、他者の過ちを含む論理をぶつけ合い、その先に行かねばならぬのだ。新たな歴史の発展としてな。
これらは一般的な論理としても通用するが、歴史をガンダムのそれ、人をそのファンと考えれば・・・多少は我輩の込めた皮肉に気付いてもらえるだろうか。
そして、「主人公側の正義が絶対の正義と描写される向きがないか」という意見に関しては。
ふむ、これに関してはなかなか複雑であるが故、この論説全体の文章の中、部分部分にて語っている故、通して読み、そして判断していただきたい。ただ一つ、この段階で先んじて結論を述べるならば。
「この物語において、登場人物は全てが正義であり、そして全てが悪である。それが故に、悪が勝ったとも正義が勝ったとも、一つの論理が押し通されたとも複数の論理が競い合ったとも言いうる。」
と、まずは言っておこうか。
それは、先の「戦争に脚本はない」という解釈と同じく、勧善懲悪と割り切れぬリアルロボット路線の、結実とすら評価できる。
故に、この作品の全体としての姿勢は、機動戦士ガンダムシリーズとして何ら恥じることはない、と、我輩は言いたい。
否。
というより、むしろこの姿こそが、ガンダムとしてのSEED、DISTINYの有るべき形であり、機動戦士ガンダムシリーズの必然足る帰結であろうと我輩は考えるのだ。
何故か。
それにはまず、ガンダムシリーズの経緯をたぐり、その源流、その本質を見極めねばならぬと思う。
2.ガンダムの経緯〜最終回のX、総集編のターンA
「この街はもうとっくに死んでいる。死んでしまったものを殺して、何の罪になるっていうんだ?」
(映画「太陽を盗んだ男」より、城戸誠のセリフ)
機動戦士ガンダムシリーズは、既に長い歴史を持つ。幾作も存在する。
その歴史の流れを見てみると、ガンダムというものはいくつかのポイントの後、元々の意味としてのガンダムとしては終結していると我輩は判断するのだ。
まず、第一のポイント、ガンダムZZについては、既に
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/5224/Gandam.htm
で語っている。「分かり合える希望」として設定された「ニュータイプ」同士が「心をつなげても違いを超えることはままならず、それでも手をさしのべようとする姿勢は美しい」という形でそれまでのガンダムの路線に一石を投じるそのかたちは、初代ガンダム、Zガンダムのラインからの離脱であり反逆であった。
そこに置いて否定される旧来の、そしてこれからもしばしばガンダムを支配する、ある要素。我輩はそれをトミノ力(とみのちから)と仮に名付け称し、そして我輩の思想とは異なる物、我輩の内なる倫理は是とせぬものと捉えている。
トミノ力とは。
ガンダム作品のなかで特に富野監督の個性が強く出ている作品(例外としてターンAのみ富野監督の個性が強いにも関わらずトミノ力は少なめだが)に存在する思想ならびに考え方、それを反映する設定などの総称(と我輩は定義づけた)。ガンダム以外では「伝説巨神イデオン」で特にこの印象が強く、ついで「聖戦士ダンバイン」(オーラ力という、この名称のネタ元の語源でもある)、といったところか。「戦闘メカ・ザブングル」では比較的その色は薄いが、主人公達のいまいち好感の持てない自由と無秩序をはき違えた内ゲバぶりにはやはりこれの匂いを感じる。
我がサイトでは上記のアドレスで以前からその我輩からすれば否むべき要素について紹介しているが、これに今回更に我輩として否むべきと考えるところを明記・付記するならば「リアリズムを言い訳とした現状追認を生んだ」「人と人は分かり合える、などという幻想を撒き散らした」という害毒が挙げられる。
現実を見つめることは成る程大事では有ろう。だが、それはアムロ、カミーユなど惰弱にして流されるだけの小物なキャラクターを主役としてもてはやし、ただ現状追認、ニュータイプなる幻想の救済を待ち保守ならぬ保身主義を肯定するが如き所行では断じてない。リアリズムとは保身であってはならぬ。確たる現実を見定め踏みしめ、さらにその上を目指すという前提がなければならぬ。
そして、そんな幻想たるニュータイプ、「人と人は分かり合えるという幻想」もまた、大いなる罪である。
我輩あえて言おう。「人と人は、本質的に分かり合うことなど出来ぬ」と。「分かり合えるという幻想を持ってはならぬ」と。
分かり合えぬならば人間社会の維持はどうなるのだ、という問いに、我輩はこう答えよう。
「人と人は言葉を解さねばならぬ以上、常に行き違いと誤解があり、そしてまた自我を保つため、他者と違う秘密を持たねばならぬが故に、分かり合うことなど出来はしない。だが、だからこそ、社会的存在たる人間は、完全に分かり合うことは出来なくとも何とか共に生きていくため、懸命に互いに手を伸ばし、互いをすりあわせていく不断の努力をせねばならぬ。それでも尚、完全に隙間を埋めることは出来ないだろうが、その軋轢に耐え尚共に生きることが出来るからこそ、人間は素晴らしいのだ」と。
さて、脇道にちとそれたが、その後のガンダムについて引き続き語ろうか。
その後「逆シャア」「F91」「V」というまあありきたりの旧来路線作品に続き、世代の変化がまた新たなポイントを作り出す。
それは、OVAシリーズから始まっていた。「0080」「0083」、そして(時期的にはこの辺TVのほうと前後し細かくややこやしいのだが)「第08MS小隊」へと続く「ニュータイプに依存しない新しい形」。意志を通わす術を持たぬ人間の、尚熱い信念同士の激突と、それでも生まれる切なる絆の物語。
呼応するように、TV作品でもそれは続き、相互に影響を与えていったように見える。0083の「ガンダムVSガンダム」から影響を受け、「愛の形」で第08MS小隊に影響を与えた作品として、「機動武闘伝Gガンダム」を生み出す。
従来のガンダムからありとあらゆる部分でとっ外れた熱血ドラマは、「もう一つのガンダム」たるSDガンダムからのフィードバッグやら格闘モノ、スーパーロボット物などの要素を取り込んだ混血児であり、旧来ファンに否定されながらも同時に確かに無視できない熱さをもってその後のガンダムに影響を与えた。(ガンダムタイプ敵味方複数登場の最初の大々的な例であり、同タイプ同士のバトルロイヤルという戦闘形式は「ウルトラマンガイア」のウルトラマンガイアVSウルトラマンアグルを始めとするウルトラマン同士の戦い、仮面ライダーアギトで芽吹き龍騎で本格化した仮面ライダー同士の戦い、そこからローゼンメイデン、Fate/staynighへとアニメに逆輸入されていく)
そしてその次の作品たる新機動戦記Wガンダムは、そんなGガンダムの熱さを「理想」という方向へと振り向けた。リアリズムと言う名の現状追認、世界の現実の(救いようのない)戦争へのある意味では阿諛追従であったリアルロボット作品において、「現実を超えよう」という話の流れを、力強く気高くやってのけた。「完全平和」というとんでもないことこの上無しの極大理想へと向けてそれぞれのキャラクターが華麗かつ激烈に突進し、そして幾多の苦難の末それに打ち勝ち成し遂げていくその姿は、平和への人間の実行力を確かに信じるという熾烈なる祈りの詩であった。まさに、「戦争」をテーマにした作品に置いて、冷戦終結後〜9/11テロ事件以前の間においての決定版、あの時点での結論とでも言うべき作品であった。
(F91の漫画版続編「クロスボーンガンダム」なども、この一連の流れやその大本たるZZに通じるニュータイプに頼らぬ人間賛歌の物語である。ニュータイプの素養を持ちながら、あえてそれに頼らぬトビアはなんとも格好いい。そして、格好いいということは重要なことだ。他でも述べるが、感動とは人を打算無く動かす力なのだから)
そして、「機動新世紀ガンダムX」。「戦後」の混乱と若き命の芽吹きを描いたこの作品こそ、我輩は事実上「第一作から続いたガンダムの路線の結末、最終回としてのガンダム」であったと言いたい。
そもそもからのガンダムは、単なる優秀な一兵器であった。それは別の言い方で言えば道具であり、ガンダムのテーマの一つである「ニュータイプの入れ物」であった。OVAやGガンダム以降作品など、ニュータイプという言葉が登場しない作品はあったが、原典である旧作の流れからの「ニュータイプの入れ物としてのガンダム」という概念はしつこく燻っていた。
それに決別の弔電を与えたのが、このXであると我輩は考える。ニュータイプの力を巡る戦いの果て、「最初のニュータイプ」D.O.M.Eは「ニュータイプはちょっとした能力でしかなく、そこに人類の革新を見いだすのは幻想である」と語った。
だが。
そこにおけるD.O.M.Eの語り口は(我輩の穿った見方かも知れぬが、それでも確かに我輩にはそう思えるのだ)、明らかに「ガンダムX世界内でのニュータイプの歴史」を語るだけのものではなかった。D.O.M.Eの語る「前の戦争」は、この世界で起きた以前の大戦のことだけを指すのではない。そして、「ニュータイプというものに幻想を抱いた人々」は、この世界の民のことを指すだけではない、と、どうしても我輩には聞こえてしまう。
前の戦争とはすなわち一年戦争=「機動戦士ガンダム」であり、ニュータイプを奉じる人々とは即ち「ニュータイプを前提にするタイプのガンダム作品のファン」であった。D.O.M.Eのセリフは作品世界を飛び出し、現実の人間の心を直接叩いたのだ。
「汝、幻想の救済たるニュータイプを求めるべからず。汝、現実是認のリアルに埋没すべからず。新しく芽吹く命として、進み続けよ!」
と。
我輩はそう思う。そういう解釈をしうる余地があるという判断が、その解釈にそれなりの正しさがあるという信念が、我輩にはある。
さて。かくのごとくXが「ニュータイプの入れ物としてのガンダム」にけりをつけても、ガンダムは終わらなかった。次なるターンAは、始まりの文字を逆さにした名前の指す原典回帰と、シド=ミードによる前衛的デザインにより、「旧来のMSと新奇な前衛MSが世界名作劇場風の牧歌的な風景の中激突する」という素っ頓狂でファンタジックな絵面が展開したわけであるが。
全部のガンダムを黒歴史としてまとめ上げその先の世界として作品を書いちゃう力業といいそれの絵としての補強として旧作MSぞくぞく登場など「ラストガンダム」としての意気込み強く鼻息荒い作品ではあったが、旧ガンダムにおけるニュータイプ問題の解決をXでやってしまったために、ラストガンダムというよりは「総集編ガンダム」っぽい作品になってしまった。そしてあの前衛的なヒゲデザインと全部を黒歴史としてひっくるめる豪快さんな行動が、最終回の後の総集編というような位置をもってして、「何でもあり」な状況を後に続く者に残してしまったと言える。
とはいえ、一本の作品としては流石にイイ出来である。ストーリーも言いたいこともしっかりしてるし、キャラクターも多くは魅力的であり、特に主人公ロラン=セアックの善人で理想主義的なんだけどそれが嫌味にならない純朴さは実に好印象。核兵器で月面都市を襲う隕石を迎撃しての「人の英知が作ったものなら、人を救ってみせろ!」というセリフ一つにも、この子のしなやかな特性が見て取れる。
強いて言えば状況に巻き込まれ過ぎな性格のせいで、土壇場まで自分の思いの先をはっきり示すことが出来ず最後の最後でソシエお嬢様を泣かせたのはマイナス(もー少しましなやりようはあったはず)だが、まあ人間何か一つは瑕疵が出来るもの、やむをえぬというところだろう。
(劇場版はいまいち編集が上手ではない、これ単体ではどうしようもなくあらかじめストーリーを大体知っとかないとダメジャンと我輩は感じたが)
と、まあ・・・そのような歴史を辿ってきたガンダムにおいて、丁度SEEDは最終回・総集編後の0からのリスタートであり、ある意味ターンAよりさらに原典回帰(回帰しすぎでSEED序盤はストーリー似すぎであったが)であった。
さて。であるならば。1.で「現代のガンダム」であると論じた、2.で「ある意味ターンAよりさらに原典回帰」であると論じたSEEDシリーズが、何故原典を重んじるファンに不評であったか。
いわゆるガノタの類は、SEEDのアラの多さや偽善さと彼等が呼称する物、キャラクター重視の展開を嫌うと叫んでいるのだが。
我輩はむしろ・・・SEEDシリーズが嫌われた本質は別の所にあるのではないかと思われる。
そしてその原因は、機動戦士ガンダムというものの存在の根幹にこそ関わっているのではないか、と。
皮肉な話ではあるが、SEEDシリーズを見つめることにより、これらガンダムそのものの問題点がむしろ浮き彫りとなると我が輩は思うのだ。
3.ガンダムというものの本質
「お前の全てを否定してやる」
(漫画「流浪人剣心」より、斉藤一のセリフ)
成る程、機動戦士ガンダムは確かに当時としては画期的な作品であった。いわゆるリアルロボ物の嚆矢となったのは、大したことではあろう。
だがしかし。
多くの「原典」、最初の仮面ライダーや最初のゴジラなどと比べ、単なる原典それ以上の価値があったかどうか、という観点からすれば・・・はなはだ疑問だ。
いや、最早声を大にして言うべきであろう。
大本としての「機動戦士ガンダム」並びにその正統後継たる「機動戦士Zガンダム」は、「本質的に言えば駄作である」と!!!
そもそも機動戦士ガンダムというものは、極論すれば「ダメダメな糞ガキがたまさか大きな力を手にして、戦争を引っ掻きまわしたあげく歪んだ電波的妄想で悟ったふりをするor発狂する」という、身も蓋もなく言おうと思えばそれこそとんでもなくダメダメな代物である。
物語構造的に主役級に分類されるキャラクターに、真っ当な人間として共感できる奴が一人もおらんとはどういうことだ。クソガキ(アムロ)にヒネガキ(カイ、ハヤト)に実力の伴わぬ高飛車お嬢(セイラ・・・いわゆる一見これに類似していると思われるキャラとの差異については後述)に凡庸ヒステリー男(ブライト)・・・スレッガーやリュウには共感できるんだがすぐ散るし、他は地味だし・・・
それでも初代ガンダムはまだ敵役にいいキャラが多かった(軽薄我が儘仮面シャアとかじゃなくて、ランバ=ラル、黒い三連星など渋く濃いジオン男共のとか)が故に、総合としては(ある意味主人公側が引き立て役という特殊配置だったが)まだ何とかなっていた。この辺をつきつめ、敵側の魅力を重視して物語を仕上げたのが「0083」であるな。
・・・だけどZでは、ソレすらないのだが。敵にも味方にもまともにいいキャラが殆どいないたあ、どういうこった。(フォウら教化人間の悲劇や、ジェリドの足掻きっぷりには感情移入しうるが。ハマーンは、どっちかといえばZZのほうがメインだし)
(これらはあくまで我輩の主観意見であるが、そう感じさせる向きがあり、我輩の他にもそう感じる者と出会ったりすることもまた事実)
我輩は先に、人間の愚かしさすら愛してみせるといった。この評価はそれと矛盾しはせぬか、と人は言うだろう。
我輩は愚かしさすら愛すると確かに言った。だが、断じて「斜に構えた口だけの傍観者」を許容するとまでは言わない、そこまで大甘ではないぞ。
旧ガンダムのキャラクターは、大半が「それっぽいことを口にしてはいる」が、口にしているだけでそのまま流されていく。シャアのような「行動する」キャラクターは、大概「自分の言ったことを信じることも守ることもしていない」し。
(シャアは言うことがころころ変わるし状況を直ぐ放り投げる、シロッコは言うこと全部が何処まで本気か分からない、あのハマーンですら、行動原理は理想半分しがらみ半分といったところであった)
対してSEEDのキャラクターは基本的に特に激しかったWのそれほどではないが、(というか大体宇宙世紀シリーズとWの中間辺りか)何れも到らぬとはいえそれぞれの理想、懸命な願いにのっとって必死に足掻いていたため、たとい愚かしくとも我輩にとって嫌悪感を感じるものではなかった。
(積極的に動いてさえいればどんな無茶でもいいのかといえば否だろうが、誰も動かなかったらそもそも歴史自体が回らぬしな)
かつての停滞した二極化社会に寄りかかっていればいい状況ならともかく、混乱した世界を前にしてそれぞれの決断が重視される現在、原典回帰を目指しながら旧来の路線を取らずその辺を時局に会わせ変化させたのは評価できると思う。
ここに言う「ガンダムの問題」は後続のリアルロボットたちにも言うことが出来、そういう意味ではそもそもリアルロボット物という物語概念自体が不健全だと極論すれば出来ないこともないが、流石にそれは無茶であろう。現実を踏み越えていくためには、リアリズムをまず認識することが大事だからだ。真上を向いて階段を上ろうとすると、大抵足踏み外して臑打って痛いし。
つまるところ機動戦士ガンダムの作品としての展開は、時代の空気に大きく助けられたということが出来るな。「リアルロボットというもの」という価値を初めて示したのは初代ガンダムでありそれを発展させたのはZガンダムであったが、「リアルロボットというもの」以外の強みは、さしてなかった。
当初は、英雄存在否定のドラマは大勢には反発された(とはいえそのせいで短縮された部分の未放送脚本を読んでみると、後の作品に繋がるような部分やそのキャラのイメージが結構変わる部分もあったりして面白いのだが)。
だが弾かれたが故のマイナー状態が、逆にその少な目のファンのヒートアップを生み、劇場版を生み、それによる注目であの時代の風に乗った。いわゆるあの時代の、英雄の時代の揺り戻し、斜に構えた無感動・批評・歪んだサヨク趣味など、そういったものが大きなお友達を動かし、バンダイの見事なガンプラ戦略が、小さなお友達を動かした。
(だからそもそもSEEDのコアなファンや子供向けの商業展開を批判する資格が、ガンダムファンにあるかどうか)
そして、その後の「二匹目の泥鰌たち」によって全体としてのムーヴメントが確立したことにより、「その大本」としての続編シリーズが恩恵を受けた、と。
我輩は常日頃創作評価における大多数の数の暴力というものを嫌う。それはマイナーな名作を殺すからだ。だが、この場合はそれとは逆に、ノイズィマイノリティ(やかましい少数派)が火の無い所に火花を起こし油を注いで大火事にした、といえるだろうな。そしてそのノイズィマイノリティどもは、今ではガノタという多数派に、かつてのやかましさを保ったまま変容した。
つまり、初期のガンダムはある意味骨組みだけの存在であり、それがたまたま時流に乗り、リアルロボットものという概念の熟成に沿って肉付けされていった、という形になる。
そしてその「骨」は、時流に乗れたからこそ舞い上がれた・・・。
つまり骨は所詮骨、後発に比べて優越たる要素には欠ける、と見なすことも可能ではないだろうか。
事実、その後のガンダム作品では、往々にして「元々のガンダムの路線からの離反」が計られているではないか。そして、飛び抜けた作品のほうが、いわゆる旧来のディープファンだけではなく、新しくも深いファンと、広範囲の一般的なファンを獲得しているように見える。
つまり、素材としてのガンダムは「踏み台」でしかないということだな。
そこから外れれば人気が出る、ということは、「元としてはダメ」ということの証明ではあるまいか?
いや、完全にダメだと言い切るつもりはない。だが・・・そう言うことも出来る、とは言わせて貰いたい。
4.鏡としての種子と運命
「何見てんだよ、お前等みんなケツの穴だ!何故だか分かるか?お前等は自分がなりたいものになる度胸がないだろ。だから俺みたいな人間が必要なんだ。「ほら、アレが悪党よ」って指さすためにな!それって気分がいいか?「善」だって?お前等は善人なんかじゃない!嘘吐きのくせに!俺は違うぜ。おれはいつだって本当のことしか言わない。嘘ついてる時でもな!」
(映画「スカーフェイス」より、トニー=モンタナのセリフ)
つまるところ、だ。
多くのガノタどもがSEEDとSEEDDISTINYをぎゃんぎゃんと罵るのは、要するに自分達の聖典の一番醜い部分を剥き出しにされたから・・・いわば鏡に向かって吼える愚かな犬に過ぎぬということなのだな。
そう、SEEDとSEEDDISTINYは鏡である。ガンダムの、リアルロボットの、そして国際政治の。
これまでのガンダムは、あくまで人間と人間の戦争であった。宇宙と地上に棲み分けても、それは当然の前提であった。一部の者がスペースノイドの優越を唱えても、それはあくまで政治的なかけ声として、であった。
(だからこそクロスボーンガンダムでのカラス先生のセリフ「我々はもはや木星人、違う惑星の生き物なのだ」という言葉と、それに対するトビアの反論が生きてくるわけだ)
対してSEEDシリーズは、ナチュラルとコーディネーターという、遺伝子すら違う二種の民族紛争、いやさ種族闘争とさえ呼べる状況を前提としている。これは、さながら現在の差異にあまりにも不寛容な国際社会を反映したものと言える。
リアルロボットの現実路線と、混沌として悲劇的な現代政治、そして現実と理想の狭間で藻掻く者達(架空の物語のキャラクター、その紡ぎ手、それを見る者、現実で足掻く生身の人間、それらをひっくるめて)、それらを移す鏡。
であるならば。
オリジナルガンダムの問題を、強く、現代的要素を加えて映し出したSEEDシリーズは、ガンダムがダメであるならばやはりダメということか?
さぁて・・・それはどうだろうか。
そう、鏡に映った左右逆の映像を、もう一度鏡に映し出せば、現実のそれと左右が同じになるように、この作品は興味深いと我が輩は思う、むしろ。
ある意味この作品ほどガンダムの問題をえぐり出したものは他になく。そのエゲツナサは十二分に価値を認めうる。
それ故に多くの解釈、感想、評価、論説を生み。それは鑑賞者の知性の研鑽を生む。
多くの公式非公式を問わぬ外伝、二次創作を生んだ。新しい物語の土台、習作の源、明日の日本アニメ界の礎である。
それらの「意義」を別にしても、この物語の様々な極端さは、単純な面白さとは違う複雑な味があると、我が輩は思っている。
・備考。尚現実政治における問題においては、国家観対立以前の問題(アフリカにおける飢餓問題や環境破壊など)など様々な要素があるが、いくら「リアルロボットは鏡」とはいえ、物語の特質上全てを写しきるわけには行かない(作品によって違う問題を取り上げる場合も多いがそれは物語構成上当然のことであり、「あれがないこれがない」と言うのはお門違いだと思われる。何でも盛り込めばいいっつう訳ではないのだ。要点は、ある程度完結に絞る必要があろう。)
5.各論としての種〜キャラクター、政策、戦争を見る〜
「(ちょっとでも普通ならざる人間は)そのもって生まれた天性によって、もちろん、程度の差こそあれ・・・どうしても犯罪者たらざるを得ない。」
(小説「罪と罰」より、ラスコーリニコフのセリフ)
さて、そんなこんなで「SEED」関係の故事来歴からくる分野について見てきて、「SEEDという作品全体への弁明」をやってきたわけだが。
ここでその上に重ねて各論、個別のキャラクターや先述の「説明しうるアラ」(戦術・戦略などについて)などを語っていこうかと思う。
(尚、ここで語られざるキャラクターもいるが、そういうキャラはむしろ「語るべき問題が見受けられない、問題のないキャラ」と我輩が解釈していると考えて欲しい。流石にキャラクターが多いので全部は無理である)
a.キラ=ヤマトとラクス=クライン
キラ=ヤマトに関しての我輩の評価は、「人であるには強すぎ、神になるには弱すぎた」少年、である。(漫画家・富士原昌幸氏の同人誌、「スーパーロボット大戦雷完結編」よりの引用)
彼の悲劇の本質としては、戦闘能力と自我の悲痛な隔絶、ことにその精神のなかでの優しさと弱さの分離があると我輩は考える。
(無印SEEDでサイに喧嘩ふっかけられた時のセリフについて喋々する向きもあるが、精神的に一番ぐれてた時期であるし、更に言えばカミーユの「抵抗すれば無駄死にするだけだって何故分からないんだ!」という、素面で他者の生命の価値を無と断じる超絶の傲慢さに比べれば赤子のように無垢なもんであろ)
そも、彼が旧作主人公の代表・アムロ=レイと比べて強いか弱いかというのはどうだか知らぬが、少なくともキラ=ヤマトは、「アムロ=レイが行ったそれよりも遥かに困難な闘いに身を投じてしまった」と言うことが出来る。
アムロの戦いは、はっきり言えばあくびが出るほど楽なものであった。アムロは終生、ただの走狗で有り続けた。不平不満を漏らしながらも、(まあ一応エゥーゴに加勢したりもしていたが、微々たるもんだったし)基本的には単なるイエスマンであった。
それは軍人としては正しいことだったのだろうが、動乱期の人間、特殊な力とソレによる影響力の(ニュータイプそのものが幻想であったにせよ、それがバレるまでの間の社会的影響力を考えるだに)持ち主として考えるならば、いささかというかかなり問題のある態度だったと言えなくもない。
ただひたすらにアムロは宇宙独立主義の弾圧者であり、シャア=アズナブルへのカウンターであったが、それは同時にスペースノイドの不満をため込み、シャアのたちの悪さを助長することになったと歴史的観点からは言える。
有り体に言えばアムロは、自分より弱い奴相手としか喧嘩しなかった。だから大人で無敵な最強ニュータイプとファンに呼ばれた。
ところがキラ=ヤマトは、ラクス=クラインと共に第三勢力として行動することにより、ザフトと連合の二国、コーディネーターとナチュラルという二つの種族、その間にわだかまる「憎悪」なんてえ形のないものに戦いを挑んでしまった。
「麻薬との戦い」にせよ「テロとの戦い」にせよ、この手の形の無い物に戦いを挑んだってどうしようもないのだ。だが、挑まざるを得ないのがキラ=ヤマトというというキャラの性格であり、悲劇であった。
彼は実際問題とてつもない戦闘能力を秘めている。だから、局面局面での戦いでは勝てるのだ。そして、勝てるから「これなら何とかなる」と次に進んでしまう。で、次でも勝つ。
だが、勝っても勝ってもどうにもなるものでもないのだ、こういうことは。故にSEEDラスト、SEEDDISTINYラスト、ともに「その場を収めた」ような格好で終わりになってしまっている。一応シンパが増えたりラクスがプラントに帰還したりしてはいるが。
勝っても勝っても次の戦いは起き続け、キラ=ヤマトは戦い続けることになる。何時か老いて討たれるか、魂が朽ち果て武器をもてなくなる、その時まで。
加えて彼には、仮初めの「殺さず」を気取ることすら許されない。戦艦の少なかったガンダムWならそれは可能だったろうが、両軍ともに大量の艦船を投入するこの世界の戦いでは、戦艦を黙らせるにはどうしても人的被害が必要になる。
というか、「二大勢力戦争への介入」を行った「成功者」ヒイロ=ユイとリリーナ=ドーリアン、「失敗者」キラ=ヤマトとラクス=クラインは、比較してみるとなかなか面白い。Wでは戦艦の数がリーブラなど極小数であったのとモビルドールという無人兵器の存在によりその辺の問題を洗練してまとめているが、SEEDではそこを一切剥き出しのまま出すことにより、この逃げ場の無い世界を映し出している。
それは無限に摩耗していく地獄である。
実際問題として、劇中描写から見てもこの問題は深刻にキラの心を蝕んでいるように見える。彼はデストロイガンダム撃破後のエンジェルフォール作戦においてシンのインパルスと戦ったとき、自分が絶体絶命の窮地になっても相手のコクピットを狙うことが出来なかった。これはもう殺さずへの拘りと言うよりは妄執、トラウマの類である。彼は「殺さない」というよりは「殺せない」、心理的に最早それを「行いえなくなっている」のではないだろうか。
戦艦の艦橋を切断したり主砲を潰す時、それを行いうるのは、「そうしなければ止まらない、艦が相手では殺さずに止めることは無理である」という「心理的言い訳」があるからこそ、辛うじて行いうるのではないか、と。
とはいえこれはまあ、我輩の穿った解釈である。劇中、キラはそれなりに感情を見せているが、それは「感情があるから摩耗などはしていない、あれは生来の鈍い傲慢さだ」と見なすことも、「微かに感情を表す心が残っていることこそ、キラが非情の殺戮者ではない証明である」とも言うことは出来る。
だが、畢竟冒頭で述べたとおり、物語とは受け手の中に存在するものだからな。批評問題という要素もあるが、わざわざおとしめる方へおとしめる方へと行く必要はあるまい。
ラクスも、これによく似ている。彼女もまた、無限摩耗地獄の中に居る。
彼女もまた傀儡であるにはカリスマがありすぎ、聡明さと気高さに長けていた。カガリの所でも補足するが、歴史上のあまたの「カリスマ的指導者」と同じように、彼女の持つ平和、それもコーディネーターとナチュラルが互いの未来を否定しあわない平和(デュランダルのディスティニープラン、遺伝子管理社会を阻止しようとしたことからの類推)という理想に人を向かわせ、平和のために戦うという矛盾を突破させうる程の。
曹操、織田信長、ホー=チ=ミン、ジャンヌ=ダルク、ナポレオン=ボナパルド、エイブラハム=リンカーン。彼女のような者は歴史にあまた居た。
それは何も教祖という訳でも扇動者という訳でも無い。それらとある意味では共有される要素の持ち主であるが、それは人間の心を動かす手段が限定されることからの必然的類似であり、敢えておとしめる必要は感じられない。
むしろ、一部のカリスマ的指導者に見受けられる「カリスマを持って語る理想と本人の内心が実際的には異なる」(当人の権勢欲や経済的事情を理想にすり替える)といった所がさして見受けられないだけ、むしろ健全であろう。
ただ惜しらむべきは、彼女にはカリスマと理想、それが招く武力以外に寄って立つものが無かった。断じて愚かではなく平均以上の知性と胆力の持ち主ではあったが・・・そう、賢く気高くあったがそれ故狡猾さには欠けた。運が悪いことに、献策を行う軍師役にも恵まれなかった。
加えて彼女は、「以前の議長の娘」という、リリーナ=ドーリアンなどの「王家の末裔」に比べれば、民主主義によって薄められた正当性しかなかったのも、また足を引っ張ったかもしれない。カリスマと理想という概念への逆風の時代も、禍した。
故に彼女は、戦争を「横合いから殴りつけて止める」ことは出来ても、「戦争が起きないように世界を変革する」ことは出来ない。そして、そうだからこそ戦いに参加せざるをえない。自己を政争の具とされぬためには、己自身の旗を立てるしかない。その指揮が、その声が、その理想が、多くの人を殺すとしても。どれだけ平和に焦がれても、人はすぐまた争うとしても。DISTINY劇中ラスト、彼女がザフトに帰還する描写はあるが、キラのところで説明したように、それはどうしても「気休め・仮初め」にしかなりえないと見える。
(とはいえ、落ち着いて聞いてみると、彼女は結構いいことも言っているのだがね。力だけでも心だけでもダメなのだ、とか、迷ったのであれば最初に何をしたかったのか考えるべきだとか、誰か他者を悪いのだとして自分はどうなのかを考えさせない甘言に耳を貸すのは危険だとか。落ち着いて聞きその主張を抜き出すと、結構いいことをいっていると思うのだが。)
そしてそんな彼女は、皆を戦いに導く立場、ということで、その精神にかかっている負担はキラよりもさらに多そうであった。
登場当初は穏やかで天真爛漫だった彼女が、DISTINYではキラと二人の時以外殆ど感情を表に出さなくなってきていたのも、哀れなまでの彼女の精神の摩耗ぶりを表しているように思える。
シャアみたいにキレて隕石を落とさないだけ、むしろそれを耐える力は大したものであろう。その「仮面を被らぬ仮面ぶり」は、偶像(アイドル)という出自も相まって、しかしやはりこれも何処か悲しい。
彼と彼女の行動は部分的には正義であり部分的には悪であった。それでも「勝ち続ける」二人に対し、「主役の不完全な勝利が絶対化されている」と言う向きもあるが。
以上の理由から、とてもではないが「勝利」とも「絶対」とも呼べず、むしろ彼等のその不完全さが絶対性の否定、相対的視野の形成の要因となりうると、我輩は言えると思う。
そんなキラとラクスが身を寄せ合う様は、孤独な異能者同士の支え合いともいえるが、我輩の美学としてはそれを傷の舐めあいと言うのは非情に過ぎる。
必死で、切なく、哀れだが、それでも平和の理想という空を目指し、互いの傷ついた羽根と孤独の寒さを庇いながら、飛ぼうとしても飛べぬ、比翼の鳥。
それを罵る舌も、哀れむ傲慢さも、我が輩は持たぬ。
b.アスラン=ザラとカガリ=ユラ=アスハ
逆にアスランとカガリは、むしろ対局の存在であると我が輩は思う。
アスランは「常に歴史の目撃者であることを運命に強要され続けた少年」。
カガリは「歴史の表舞台に立ち続けざるを得ない運命を背負う少女」である、と。
カガリは「行動的お姫様だが才能的にはそれほどではない」という、先述のセイラ=マスに一見近いような立ち位置だが、その実は限りなく遠いと言える。
セイラを「高貴さに実力が伴っていない高飛車なお嬢様」とするならば、カガリは「姫でありながら泥臭く土の匂いのする七転八倒七転び八起きキャラ」であり、むしろ「男の一枚レッドカード(著・島本和彦)」の「男の4つの習性をヒロインなのに体得しちゃってるキャラ」であると言える。
その「男の四つの習性」とは。
1・「馬鹿な目標をもっちまう!」
2・「目標以外は見えずにまっしぐらに進んじまう!!」
3・「その結果とことん叩きのめされちまう!!」
4.「それでもやっぱり立ちあがっちまう!!」
・・・と、こういうものである。なんつーか、改めて書き出してみるとホント、カガリそのものであるな(笑)ちなみにここで言う「馬鹿な」、とはいわゆる頭の悪い、というよりは無茶を承知の大目標、といった感じが原作でも強く、我輩はその意味で引用している。
往々にしてカガリを嫌う人というのは、彼女のこーゆー特徴を見抜けなかったか、あるいは政治的ではないと見なしたか、ということになるが。
前者はうっかりミスであろうが、後者はウズミ・カガリ父子の政治家としてのタイプ分類を見誤っているということであり、最大の誤解の源であったと言える。
アスハの家の者は史実の人間に比喩するならば、古代中国の劉邦や劉備、近代政治でいうところのモーハンダース=「マハトマ」=ガンジーの系列に近いタイプであり、名作歴史漫画「項羽と劉邦」の比喩でいくならば「泗水が氾濫してあたり一面を水浸しにしているような特大の馬鹿」であり、背負い切れぬ大きな理想を抱えて七転八倒していると、その行動の格好良さと人徳によっていつのまにか周囲に人が集まり、皆ででっかい理想を一緒に担ぎ上げていく、同じガンダム系では「W」のリリーナ=ドーリアンなどと同じ部類、そんなタイプと我輩は考える。(逆にラクス=クラインは、先天的なカリスマで人を集め、必要と有れば目的で手段を正当化して、ぐいぐいと目的に最短距離で突き進んでいく、歴史上の人物で言えば曹操やホー=チ=ミンに近いタイプの人と言えると思う。ガンダムでの類例としてはWのトレーズ=クシュリナーダか)
さて、そんな「アスハの理想主義」に、反感を持つ者は劇中並びにファンの中にも多かった訳だが。劇中、理想の直接被害者であるシンが言うのであればそれは物語要素として良かろうが。
ファンとして言うのであれば、また「何とも退屈なことを」というものだ。
現代のこの国の民にはわかりにくいであろうが、国家とは多かれ少なかれそういう「核」を本来持つものなのだ。損得勘定だけの国家は、むしろ一種の奇形である。人間一人一人に心があり、単純な計算だけで動くものではないことから考えれば、その集合体である国家に単純な損得だけによらぬものがあるのは当然のことであろう。
であるならば、そのために犠牲が出ること、それが為政者の罪とされることに関しては腹をくくっても、ただ滅び行く以上のことを行うべきであり、行えば良いであろうと考える。
滅びの中とその先に何があるかなどは、最近の人間には想像も付くまい。国家と国民の守護を、単純に国土と財産と生命の保全などと考える、近現代の自由民主主義的イデオロギーのみに縛られた貴様は、まこと哀れでならぬ。そんなものは本来、民の力が貴族を上回ったということをきっかけで制定された、過ちがあったときに間違った元首を罷免しやすく、失政の最終責任が国民に返ってくるというだけの「システム」に過ぎぬ。そんなものに囚われるから、惑い無様を晒すのだ。
自由、国土、財産、生命、成る程それらは確かに大切だ。だが、それ以上に大切なものが国家と国民を生かしており、ソレを守ることで国と民は「生きる」のだ。
ソレは倫理とも、道徳とも、伝統とも、魂とも言ってもいい。動物、けだものの一種でしかないホモ=サピエンスが、人間であるための欠くべからざる部品。ソレがないホモ=サピエンスなど、社会にぶら下がり文明無くば己の命すら保てぬ点に置いて獣以下、ただ化学反応を起こしているたんぱく質の塊に過ぎず、「生きている」とは言えない。古の哲学者に言わしめた「ただ生きるのではなく「良く生きる」」ことを実践してこそ、知的生命体にして社会的生命体である人は「生きている」と言えるのだ。先程の王と民の論理は、言うなればそれに対する比喩である。倫理、伝統、道徳、魂を持ち合わせぬ者は、そも「人間として生きていない」のだ、ということを言うための。それらは、ただ人の文明の負の面のみの体現であり、浪費のみをする存在であり、誰かのためになる者ではなく、すなわち国民ではないのだから。
では、国家の理想が霞んでしまった上に国家自体が滅亡の危機という現状に置いて、取りうるべき手は何か。その選択において、この場合は間違いを犯しては居ない、と我輩は見る。人間、絶体絶命となったとき出来ることは二つしかない。「格好良く(強く、気高く、真正面から、美しく、運命に逆らい、運命を受け止めてなど比喩表現としては様々有ろうが)あるか」か、「無様(これまた比喩表現としては様々有ろうが)であるか」だ。
絶体絶命を乗り切れるか散るかは結果であって、取れる姿勢はこの二択。
そして、人は良くあらんと挑んだ者の姿に、感動を覚える。感動。これこそが、欲望意外に唯一人間を動かす力である。人は己の精一杯を尽くすことで、己が正しいと信じたことに殉ずることで、人は人に感動と、感動に込められた思いを不完全にではあるが共感させることが出来るのだ。それは、学んで得るものではない。伏流水として埋まっているものを、掘り出す行為なのだ。
たとい理想が、民が眠りこけているのだとしても、感動の光はその瞼を刺す。国家の伝統、国民の魂の本質を破壊することなど、共産主義や原理主義などといったイデオロギーを大量かつ執拗にぶち込んでようやく傷を付け破壊しうるものであり、長すぎる平和に倦んだ程度で消えるほど脆弱なものではないと我輩は信じる。仮にその殆どが前述の手段などで破壊されたとしても、それでも人はよりどころを求めて、イデオロギーの夢に浮かされる時間が終わったならば、今一度その欠片を探し求めるものなのだ。完全なる無宗教なるものが、実質は科学というものを対象とする宗教であるが如く、人は信じることをやめる事は出来ない。
人は完全に分かり合うことなど出来ないから、これもまた不完全なやり方である。だがそれでも、言葉で分かり合えるはずと空理空論に安んじるよりは、行動でもって感動を生みだし魂をぶつけ合うほうがまだ何とかなりそうであると我輩は考える。例えその行動が、現実に阻まれ見果てぬまま朽ちたとしても。先を行く者に感動を見いだすことが出来るのであれば、その後に続く者は確かに現れる。それは敗北ではなく勝利である。潰えれば、死ねばそれまでなどという考えは、人間とそれが織りなす歴史の美しさと激しさに対する冒涜であろう。それこそが魂と伝統を守る行為であり、ひいては真実に国を守るということである。
この継承の過程で、血は流れよう。悲しみは生まれよう。憎悪も沸き立とう。
だが、それは歴史の必然である。人類は常に、それに耐え抜いてきた。否、流血と憎悪と悲痛があるからこそ、それを超えうる伝統と魂の継承が必要だったのだ。吹き飛ばされるのではなく、それを押さえ、昇華し、超えるために!!
我輩は人を愚かであると言った。決して完全には分かり合えぬ、とも言った。だがだからこそ、そんな中で人が懸命に足掻きながらより良き明日を目指す姿は、美しくまた何より愛おしいと思うとここに宣言しよう。そして、その不完全な者達のぶつかり合いが、悲しみと怒りとを含みながらも、人を僅かでも良き明日へとつなげていくことを、我が輩は思い、故に、気高く美しく生きようとすることを否定する者、人が織りなした「物語(現実のそれであれ架空のそれであれ)」の意味を破壊し、卑俗におとしめようとするものを、我輩は許さない。
それは獣への対抗であり、誰も守れず、誰も救えぬ屑への堕落だからである。それは断じて、人の目指すべき道ではない。
無論、ここでいう我が論理は、またこの論理のオーヴにおける当てはめにおいても、シン=アスカという「憎悪の子」、ユウナ=ロマ=セイランという「理念と法の否定者」が生まれると同時に、迷いながらのカガリの「何度でも再起する頑張り」、トダカ一佐という「徹底的軍人覚悟に殉じる漢ぶり」、アマギ一尉ら、「愚かしくも懸命に信じたもののために尽くす誠意」もまた存在した物語的事実から、立証されうると我輩は考えるが・・・
カガリはことにその要素が強く、それ故に前述の「男の四つの習性」ヒロインと評価してしまうわけである。
「人間としてはいい奴なのかも知れんが、政治家としては失格だな」か「政治家として失格かも知れないが、人として立派だ!」「新海底軍艦(漫画版)」のセリフを一部改変)というかどうかは、それこそ個人の好みの問題であろうが。
対してアスランは「真面目という意味で人間としていい奴」であった分、カガリより苦労を背負い込む羽目になった感がある。
ことにDISTINYで顕著なのだが、彼は真面目であろう、大人であろうとする向きが強いせいで、かえって要らざる苦労と混乱を背負い込む羽目に陥っている場合が多い気がするのだ。
前の戦いで後半無茶をやった反動からか、常識的たらんという行動が自縄自縛な感じを生み出してしまっている。
とはいえ、それがアスランらしいといえばらしいのであり、突っ走るカガリやそれぞれに激しい他のキャラクターとの対比になっていて、独自の味になっていると我が輩は思う。
それぞれにいい奴でそれぞれに無茶な二人がぶつかり合い迷走しながら尚互いを思う様子は、熾烈ながら微笑ましい、という複雑な味わいを醸し出していると思う。
(余談であるが、カガリがオーヴに帰還したとき、カガリの一声でユウナを周囲の人間が拘束したことについてあれこれ言う向きもあるが。あれは要するに「もみあげボンボンと可愛いプリンセス、どっちにつく?」「聞くまでもなかろうよ!」(魔界塔士Sagaのセリフを改変)つーことであろうな。あるいは、「どっちにつく?」「女!」「だろうな!」(ルパン三世カリオストロの城より)か。ある意味では必然であり、さして悩むことでもないな。)
c.シン=アスカ、ホーク姉妹
声を当てた声優の方も指摘していることらしいのだが、シン=アスカは「一般人」の視点で動くキャラである。
加えて我輩の認識するところでは、「悲劇の時代の一典型」であり、「憎悪の連鎖に組み込まれた子」であると言えよう。傷つけられ、力を目指し、そして人を傷つける・・・戦乱の時代には何処にでもそして何時にでもいたタイプである。
であるからこそ彼は若干地味な印象を受け、そしてだからこそ等身大の泣いたり怒ったり騙されたり悩んだり浮かれたり沈んだりする生身の魅力が強い。その辺のところ、なかなか生かすには難しいキャラクターであり、劇中いまいち目立てずにいたが、こういう「マイナスの方向性を強く抱え込んでいる」主要キャラクターは希有(アムロ、カミーユはむしろ状況流され系であり、ジュドーはシンと類似して地に足をつけた個人的なところがあったが、因縁から自由な前向きさが特徴であった)であり、そういう意味ではかなりの価値を有するキャラクターであった。
我輩がSEEDDISTINYを作る側の人間であったなら、むしろ抱え込んだ憎悪を最大限そして際限なく増幅していく黒いキャラクターとして描写し、「理想の天をのたうちまわる者」キラと「憎悪の地を上り詰める者」シンの対立を軸に描いてのけただろうが・・・
様々な混乱により「戦争に脚本はない」と言うべき状況を逆説的に作り出したSEEDDISTINYにおいては、我輩はむしろシンの至らなさ中途半端さ未熟さは、憎しみの連鎖の中でのたうつ人を描く物語において生身の人間に最も身近い存在として有意義であると思う。
ちなみに、そんなシンのいくつかの行動(カガリへのつっかかり、ステラを殺したとしてのキラへの強い憎悪)などを「逆恨み」と評価する向きもあるが、それは言い過ぎと我輩は思う。
人は誰も全知にはなれぬし、予知者にもなれぬ。
カガリへつっかかったのは「シンが見た範囲では」仕方のないことであったし、ステラがキラに殺されたのはシンがステラを連合に帰したせいだと言われても、「あの時点でシンがそうしなければステラは死んでおり、シンとしてはネオとの口約束を信じるしかなかった」のだから。
シンはシンなりに、彼の及ぶ限りの範囲で全力を尽くしたのだと我が輩は思う。
(ちなみに個人的感想だが、シンの拗ねたときの口調や仕草は、大本における性質の違いはあるが、カミーユ=ビダンをどことなく彷彿とさせる。最も本質的に傲慢であったカミーユより、何処か飢えた必死さを漂わせていたシンのほうがやはり個人的には好印象。)
ルナマリア、メイリンのホーク姉妹は、シンの「暗い普通性」に対する「明るい普遍性」「健全で一般的な感覚の持ち主」という要素を持たされていたように見える。
それ故に割とふらふらした感じが強いと見る向きもあり実際そうなんだが、そういう普通さはリアリティの範囲内で場の空気とキャラクター間の関係を和らげる潤滑油であり、主役級キャラクターという「英雄(語弊もあるし当てはまらぬ者もいるかもしれぬが、いわゆる歴史の一般人から離れた者という意味での)」を「一般の人」とつなぎ合わせる、地に足をつける役割を果たして居るとも言える。
(その割りに当の本人達は上記の如く浮ついたというかミーハーな面がある、というのがまた逆説的で面白いのだが)
そんな彼と彼女らのありようは、限界を備える人の身としては、自己との比較の中において、様々な意味を発生させうるのだ。
d.ラウ=ル=クルーゼとレイ=ザ=バレル、フレイ=アルスター
クルーゼとレイは、複雑な縁で結ばれたキャラクターであるが故に、そしてその「視線」が似ているが故に、まとめて紹介するものである。
クルーゼ。今まであまた登場した「ガンダムにおける仮面の男(含む覆面の男)」においては、こいつの方向性はいささか珍しい。
多くの仮面の男たちが顔を隠したその訳は、自分を隠すことでその目的を達成するため(ザビ家抹殺とか)であった。
言うなればまず己があり、事を成した後で隠してあった己を再び表に出すために仮面を被っていた、ということである。だがクルーゼには「己」が存在しないのだ。
彼は、自らを人の業そのものとしていたから。
雄弁であり、人類の業と運命の心理を抉り嘲笑う数々のセリフは、彼の死後も友人ギルバート=デュランダルの回想に登場し続け、深い味わいを醸し出し続ける。
それ故か、主人公サイドの人間がなかなか結論を出せずに苦悩する中の彼の言葉は、皮肉混じりに「SEEDの中で唯一正しいことを言っていた」と評価する動きもある。
とはいえ、それはどうかと我が輩は思う。クルーゼの論は、あくまで批評的、皮肉的、カウンター的な要素から出たものであり、「正論」ではあるが「正しい」かといえば違うと思う。
妥当な論理から導かれただけの「正論」に正しさは無いと我が輩は思う。正しさとは「人が生きていくのに対して真っ直ぐな言葉」であり、絶望を助長するのは単なる「不躾な言葉」でしかないと我が輩は思う。
だが、そうであるが故に「敵」としてのクルーゼは実に魅力溢れるキャラクターであった、と我が輩は思う。一面の正しさを持つ敵というものは、よいものであり、そしてこのガンダムのリアリズム溢れる世界、誰もが正しさを持ちながらぶつかり合うが故に誰もが過ちを犯している世界に何より似つかわしいと思う。
レイの立ち位置は、ガンダム世界においてはクルーゼと同じようにやはり特殊な印象を受ける。彼は主人公たちとほぼ同世代の少年キャラクターという立ち位置にいるにも関わらず、「過去を見ている」キャラクターなのだ。
クルーゼの「弟」であり、それ故に議長に従うというスタンスで、シンにアドバイスを加える様も、どこか唆すような、操るような。
自らもまたクルーゼであると叫び、己の命の限界からシンに理想を託し、キラに立ち向かう彼の「必死な後ろ向きさ」は、「そのように生きることしか出来ない人間」もいて、それは決して単純に割り切れることではないということを切実に訴えているように、我輩は思えてならない。(類似のキャラクターとしては、長谷川裕一の「鉄人28号〜皇帝の紋章〜」における超人間ケリーが参考としうる)
フレイは、まあ、こんだけ(放送時間の常識から考えて)無茶をやり、こんだけ(ファンに)悪女と罵られたキャラも珍しい。それこそVガンダムの嫌われ者、カテジナ=ルースと比較され「第二のカテ公」と呼ばれたのも分からんでもない。
だが、我が輩的には正直カテ公よりゃあまだマシかなあ、と思わないでもない。
カテ公は「苛立ち」から行動していた。言うなれば、自己の内部で完結すべき事柄を外に垂れ流しとったわけだ。弁解の余地はない。
フレイは、「憎しみ」で行動していた。これは自己と他者の関係であり、まだ理解しうる。その為にとった手段はえげつないが、無力な彼女が取り得る、そして歴史上物語上しばしば散見された手段だ。そこまでひどいことでもない。
そんな彼女のラストでの改心についてだが、ご都合主義と言う者もいるが、これは「業と憎悪の化身」クルーゼと一緒にいたせい、と解釈するのが妥当だろう。それ以前からも「謝りたいけど叶わない」という蓄積があった上に、自分の抱えているどろどろの一番醜く濃いところの例を目の当たりにしたのである。そりゃ、人も変わろう。
そういう意味ではやりクルーゼと縁深いキャラとして、ここに掲載するものである。
彼等は、恩讐と因縁の果てに生きる人の悲劇を見せつける、悲しくも美しい存在であると、我輩は思う。
番外・この世界の戦争について。
えー。ちょいとあちこち除いてみると。いわゆるガノタ共のなかでも軍オタ(軍事関係に近いオタク)の類は、本作品の戦闘・政治(キャラクターごとの説明のほうでやってないとこについて)におけるリアリティの問題に関してツッコミを入れている。
その辺に関してちょっとだけ、我輩の意見をば。
えー、まず第一の突っ込み、核兵器の扱いが雑な点について。
これに関しては、まさに現実の写し鏡としての結末であろう。現在のアメリカにおいては先制攻撃戦略のもと戦術核の実戦使用が軽々しく論議されたり、あっちこっちの国で各開発が問題になったり、冷戦構造の崩壊により核において抑止という概念が薄れつつある。そして、吹き荒れる民族的憎悪が、核のトリガーを軽くしている。
憎悪を大きく描くSEEDシリーズにおいて、核のトリガーは現実より更に軽くなっている、ということだろう。(最も、核弾頭が輸送段階であっさり発見されたりするのは延々諜報戦をやる訳にも行かず児童視聴者にもわかりやすく、という放送上の都合だろうが)
さて第二の突っ込み、この世界の軍隊がやたらと決戦主義的な点について。
成る程確かに、これは現代戦の常識には反する。
だが。その指摘に、我輩は「馬鹿か?」と思わずには居られないのだが。
そもそも巨大ロボットを使った戦争が、今の現代戦の常識で計れるものか。
まあそもそも「巨大ロボットを使った戦闘」というものが成立する条件に関してはまた色々言うことが必要であろうが、ソレはそもそも他のロボットものと共通の話題なので、今回はおいておく。
で。そうなると問題は、巨大ロボットを使った戦闘というもののドクトリンは決戦主義になるのか?なるとしたら理由は何か?ということになる。して、その答えだが。
MS戦闘が決戦主義になる理由(そもそも今までのガンダムでもそーゆー決戦はしばしばあるのに、何でまたこれについてのみしつこく言うのかは・・・まあ前述の核の扱いと会わせると、それだけ目立つっつーことなのであろ)は、即ちパイロットにある、と我輩は考える。
そもそも、艦と機動兵器の組み合わせの大規模戦闘、というものは実は第二次大戦、大東亜戦争の空母と艦載機による戦にまで遡る。あの戦い以後、大規模な空母艦隊同士の激突って滅多になくなってしまったし。で、そこにおいて、答えの鍵がある。
珊瑚海、ミッドウェー、南太平洋と戦って、劣勢になった大日本帝国海軍が直面した問題の一つに、パイロットの不足があった。飛行機乗りというのは育成に時間がかかるため、次々戦死しちまうと補充がきかなくなってしまうのだ。腕のいいパイロットが居なければ、いくらいい機体があっても的になるだけだ。
故に、一つの戦いを前にパイロットの頭数をそろえなければならず、必然そろったところで行動しぶつかり合う・・・会戦・決戦主義にならざるをえなくなる、という寸法になるわけで。加えて人型機動兵器は、技術としては超最新技術の塊であるが、同時に人間同士の戦いが派手に拡大されたようなものなので、さながら古の英雄豪傑達の戦のように「個の武」が問われることになる。それは騎士の時代の再来であるのだが、しかし同時に他の戦争のテンポはそのまんまということが、また別の問題である。
いかなるエースパイロットとて疲労や眠気、飢えといった肉の束縛を無視して全力を発揮することは出来ない。きちんと休ませてあげないと機械のようにスイッチ一つでいつでもOKという訳にはいかないのだ。
多数の兵力を動員するための休息と行動の周期に、無論これらエースも会わせねばならない。一騎当千の豪傑は一種の決戦兵器であり、相手側にそういう手合いが居たときのために味方のその手の奴もきちんと揃えておく必要があるのだ。
故に、必然ますます決戦主義になってくるわけである。
(話が進むごとに新型ガンダムが化け物じみてくるのも、その流れから来る発想ということが出来る。最も、トンデモガンダムやゲテモノガンダムの類は既に今までの歴史でも百花繚乱であり、今更言うこっちゃないが)
第三の突っ込み。ザフト軍の無茶な構成について。
驚くべき事に、ザフトの軍隊は(元々が義勇軍から発展した設定だとはいえ)制式な意味での階級が存在しない。隊服の色分けで役割の分類がされているとはいえ、近現代の軍隊の常識に真っ向から逆らっていると言える。
こんな無茶な編成ありなのか、これで軍が成立しうるのか、ツッコミは多いが・・・
これに関しては、「コーディネーターであること」が理由であろうな。コーディネーターはそれぞれ天才的な能力を持ちつつかつその方向性が違ってきているから、あまりがちがちの組織で縛るとかえって効率が墜ちる、ということだろう。
例えは悪いが、「仮面ライダー」の悪の秘密結社ショッカーの怪人が(能力が限定されている再生怪人以外は)怪人を複数そろえて団体行動させないのと同じような理由か。ああいう違いすぎる者たちを迂闊に同一規格でまとめると、味方同士で足引っ張り合うことが多いのだ。
(いい例として、毒ガス怪人トリカブトが再生怪人を率いて行動したとき、トリカブトが毒ガスを吐いたら、真っ先に死んじゃったのはよりにもよって味方の再生怪人だったってえオチが・・・)
動植物合成と遺伝子強化の違いはあれど、良く考えたらどっちも改造人間だし。
第四の突っ込み、ディスティニーガンダムに殺されかけたキラとアスラン(とメイリン)が生きていた件について。
アレに関しては、ご都合主義とかいろいろ言われて実際その向きも強いが、個人的に解釈で補足を加えるならば、シンが使った得物に理由がある、と言える。
あれがもし普通のビームサーベルだったら、ないし横殴りに叩き込まれていたら、成る程キラもアスランもニコルみたいに弾けてひでぶな事になっていたであろう。
しかしシンが使った得物は、ヴァイオリンの弓のような構造で横部分のみに強力なビームの張り巡らされた代物であり、突き刺した切っ先は実体剣と大差ない破壊範囲しか持ち得なかった。
故にコクピット周辺を刺されたにも関わらず生存し得た・・・と解釈できる。アスランのグフを落とした時、キラ生存を知らなかったシンであるから、同じ攻撃をするのも納得できる。機体が結構派手に吹っ飛んでいるのに、というさらなる指摘もあるし、ムウ生存に関しては流石に結構無茶だが、人気によるこの種のキャラ生存はアニメでは良くあること、むしろスタッフのどたばたやら劇中での裏設定、ムウ=ネオが記憶を取り戻すきっかけの「同じ行動」という妙を面白がるほうが健全であろう。
主人公ってのは、倒したと思っても死体を確認しない限りは生きてる可能性があるものだしな、と単純に落ちを付けてもいいのだが、実際問題として人間というものは確かに条件が揃えば酷く脆いが、逆に偶然が許せばえらくしぶとい。
脳天を針金が貫通した、胴体を木杭が貫通した、雷が直撃したなんて、普通なら確実に死ぬ、そんな状況での「奇跡の生還」は、世界が広いが故にちょくちょく聞くではないか。
そして第五の突っ込み、軍産複合体ロゴスについて。
ロゴスは地球の軍需産業なのに、地球を焼いて回っては利益を出せぬのでは?軍需産業が最も儲かるのは「遠くで戦争してる国に売りつけてるとき」なのに、と。
確かにそうだ。この理屈は全く正しい。
だが、あの世界の状況は、既にしてそれを許さぬ状況である。連合(厳密には連合内部はそれほど一枚岩ではないのだが、それでも戦争の火種を起こすのは他と比べれば充分難易度高かろう)・ザフトの他の独立国がオーヴしかおらんような状況では、「どっか遠いとこの戦争」なんぞ夢のまた夢。しかし軍産複合体というのは自転車のようなもので、何しろ軍備は平和な時には常に不良在庫なものだから、常に回転してないと倒れる自転車の車輪状態。悠長に「遠くの戦争」をでっちあげる暇もないため、若干被害も出る「近場の戦争」で妥協した物であろう。
もっとも、それよりも重要な件として、事実上ロゴスはロード=ジブリールたちブルーコスモスに乗っ取られていた、ということもある。
何しろ過激派思想団体なのだから、必然そっちはなりふり構わない。結果、ロゴスお膝元の地球圏でもかまわず戦争になる・・・というわけである。
とまあ、解釈しうるわけだ、と我輩は言わせて貰う。
e.ギルバート=デュランダルとロード=ジブリール
「革新の怪物」と「保守の権化」。
そんな、一見対照的、対になるような言葉で語ってもいいキャラクター二名であるが(アズラエルもジブリールと同じ路線、というかジブリールが二代目アズラエルに近いのだが)、その路線は大きく違う。
単純に言えばデュランダルは政治家、ジブリールは思想家・活動家であると言える。ジブリールは本来軍産複合体ロゴスの主導権を取る立場にあったが、むしろ本質的にはブルーコスモス思想の正統後継者であった。
故に地球圏の軍や企業といった本来ならば冷静に理を重んじるべき所をコーディネーター排斥という思想の元暴走させることは出来たが、一辺受けに回ると勢いを保つことは出来ず、脆かった。
対してデュランダルは、これは政治家である。
それも、かなり優秀な。
というか、このギルバート=デュランダルという男、政治家としてみると相当したたかで強腕だ。当初は穏健派として主導権を握っておきながら、自分のコマとして使いうると睨んだ相手(レイ、シン、アスランなど)に対して素早く手を伸ばし(ついでに言うと要らなくなったとき切り捨てるのも素早い)、前大戦の英雄にしてアイドルたる存在の影武者を作って民衆を扇動、民草が戦いに疲れ果てたタイミングを見計らって軍産複合体の陰謀を暴露、自らは直接その構成者を殺害せぬと言っておきながら人名公開により怒れる民衆がそれを襲撃することを黙認。
その上でシンが最大の障害であるキラのフリーダムを排除した(と見えた)タイミングで己の真の狙いであるディスティニープランをディスティニー、レジェンドのロールアウトという形で始動させ、最終決戦に望む、と。
老獪さと過激さ、カリスマとビジョン、それらを持ち実務にもプロパガンダにも長ける、渾名であるところの「最強評議会議長(公式サイトにおける「最高評議会議長」の誤植より)」というのも納得できる大政治家である。
彼の唱えたディスティニープランの描写は漠然としたものだったが、我輩の解釈でもって要約すれば「遺伝子による人類の素質の喝破と分類選別、人に未来の知識を与え不平不満という争う原因を作らない社会を生み出すこと」であり「遺伝子による完全管理社会」と言うことが出来る。
某同じ声優のキャラのセリフをもじって表現するならば「私が愚民共全てに今すぐ英知を授けてみせる!!」といったところか。
これに関してラクス、そしてキラに「エゴだよそれは!」と突っ込まれたわけだ。
(ジョジョの奇妙な冒険・第六部から、「これで人類は変わるッ!」「お前は自分が悪だと気付いていない、最もどす黒い悪だ」というのも比喩としてはアリか)
デュランダルのこの行動は確かに一面の正しさを持ってはいたが、もたらされる世界は争い無き世界であると同時に完全なる統制社会である。
そういう意味でもこの男、改革というものの功罪を体現した存在である、と言える。その強さも、危うさも。
そして彼は最後の最後までその強さを保っていた。デュランダルの目指す完全管理社会を糾弾し人の自由と自由を良い意味で生かす魂を信じようとするキラに、
「混沌とした世界でもなお人が生きていけると思うのは、スーパーコーディネーターとして生まれたがゆえの傲慢が言わせることだ」
と反論してのけ、「善悪の彼岸、それぞれの主張の激突、正義と正義の戦い」という要素を最後まで保ったのは流石。
その後結果として自分で利用していた、かつての友・ラウ=ル=クルーゼと同じDNAを持つクローン、レイに討たれたのは皮肉であったが、それもまた「急進的な改革には付き物」であった。
彼もまた、SEEDの特徴でありリアルロボットものの本質を特に受け継いだ面である「それぞれの正義」を背負うキャラクターであった。
f.多くの死に行く男達と女達と&g.そのほか、歴史に接触している人達の意義
さて、SEEDシリーズでは、ガンダムシリーズらしくも多くの死者が出た。
その生き様死に様は様々であるが、目立つ死に方をした奴とあっさり死にすぎた奴の落差が激しいとか、主流に乗ったキャラと脇役化したキャラの落差が激しいという意見をちらほら聞くが。
いや、実際そうだと我が輩も思うが、それこそガンダムシリーズの標榜する「リアリズム」っつー奴じゃないのかね?
この辺は漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第五部において、メインキャラの一人であるパンナコッタ=フーゴが途中で主人公達の無謀な行動についてこれず現実的判断で離脱したり、同じくメインキャラの一人であるナランチャ=ギルガが、死に際の描写が殆ど何もされないまま、あっけなさ過ぎるが故に死の絶対さを際だたせた最後を遂げたのを思い起こさせる。
現実の戦争に脚本は無いのだから、ある意味でこういうのりは正しいのではないかと。
そして、そういう意味でのそれぞれの生き死には、むしろその落差の大きさから類推される意味(いい例として、愛されて死に悲しみを残したステラと、記憶を操作されるエクステンデッドの悲劇の象徴として仲間の記憶から忘れ去られたアウル、最後まで兵器として扱われ、与えられた憎悪と衝動のままに散ったスティングが挙げられる)という点で、旧来の作品における諸々のキャラクターの扱いに比肩する以上の成果は出したと思うが。
6.そして・・・
「ボルジア家の圧制はルネッサンスを生んだが、スイス五百年の平和は何を生んだ?鳩時計だけさ。」
(映画「第三の男」より、ハリー=ライムのセリフ)
(シリーズとしての)混乱、(制作上の)混乱、(現実世界の)混乱、三つの混乱の中から、この作品は生まれた。
「戦争に脚本はなく」「それぞれの正義がぶつかり合い」「悩みながら人は生き足掻く」
この三つの、当たり前の要素を、三つの混乱が極限まで加速させた。
それは、方向性こそ違えど、経緯、そして結果からすれば、撮影の致命的な混乱、マーロン=ブランドの我が儘などの諸々の理由で狂乱狂態を現出せしめながら、それ故に一種異様な力を持つ作品として仕上がったかの戦争映画の狂気の名作「地獄の黙示録」と似ているように思える。
地獄の黙示録ほどの、濃密な狂気はない。ここにあるのは、人間めいた恩讐と因縁、希望と絶望、足掻きと諦念、潰える者と再起する者・・・
だがそれはある意味で狂気以外の全てだ。
様々な要素が、混沌としたままに詰め込まれているこの作品は、多様なる可能性を秘めた、まさに種子である。そしてそれは、時が愚かなる狂熱を吹き払った日には、この時代の運命を映し出す一つの華として芽吹くであろう。
ガンダムが生み出したリアルロボット路線の極北に在るこの作品は、決して無価値な代物ではない。不完全な物ではあるが、その不完全さ故に、名作とやらでは出しえぬ味と、様々な多様性、激しさを備えている。
我輩は確かに、そして熾烈にそう思う。
以上が、我輩なりの言説である。読み手たるものよ、かくのごとく記憶し、それが正しいか問い続けよ。
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