駄目台詞

駄目台詞・・・とは、名台詞の対極、惰弱で、劣等で、腰抜けで、退廃的で駄目駄目な台詞のことです。

ここは、我輩こと悪の博士がそれらを怒りのままに悪としてそれを徹底的に糾弾し弾劾し何処がいかんのか徹底的に知らしめるところである。あくまで我輩の価値観に乗っ取って、でありそれに賛同できなくてもかまわないが。

我輩も諸刃の刃だとは思いますが、しかし最近どうにもこうにも惰弱な台詞が後を絶たず、我輩怒り金時です。かの漫画家島本和彦曰くように、そういう台詞は詠む人の気を削ぎひいては国家を崩壊に導きます(大げさ)
我輩はやる!あえてやる!どうせ今までも嫌いな作品についてかなりキツい感想書いてきたのだから、今更多少のことでは問題になるまいて。
・・・でも一応用心のため、あえて発言者の名前や作品名は出さないで置こうと思うが。それにこのほうがこれを見た人も、より公平な立場から意味を考えることが出来るであろう。
さしあたっての例としては、こんな感じか。





「赤の他人のために怒れるなんて素晴らしいことだと、わたくしは思いますけれど。今の世の中そうそうできることではありませんよ」
「他人のために感情を発揮できる人間はね、何かあったときに他人のせいにする人間だからだよ。あたしはね、きみみたいな人間が最高に嫌いだよ」


ふざけるな。ふざけるな!ふざけるな!!!
最低の例を挙げてその他一切合財を否定するなど、もっとも初歩のペテン!他者のために感情を発露する者には、他者という本来完全に理解できない存在にあえて接近を試み、それにより心を、時として命より重いものを傷つけられる危険を厭わないものであるはずなのだ、このような放言をする一部の愚民を除いてはな。
従ってそれ(この場合におけるよき例)は当然体すなわち命をも差し出しうるものであり、人という不完全な存在が唯一優れていると確かに言える、生存本能を超える覚悟と勇気につながるものなのだ。そのような人間がそんなときに他者をダシに使うか!むしろ普段は多印などどうでもいいといっているくせに追い詰められると豹変して周囲に迷惑かける、というパターンのほうが多いと思うがね、我輩の今までの人生経験ではな。
それを否定するとは、中国語で言うところの忘八徳(ワンパータン、人間として最低限備えるべき八つの徳を忘れたケダモノ鬼畜の意味)である。
人間としての最低レベルを下回ってしまっている。こいつを殺しても殺人罪にはならんぞ人じゃないから、ってくらいに。



「いっくんは、人殺しを許容できるのかな?」
「できない」
「許すだの許さないだの、そういう問題じゃない。許容云々以前の問題なんだよ、それは。人殺しは最悪だ。断言しよう。人を殺したいという気持ちは史上最低の劣情だ。他人の死を望み祈り願い念じる行為は、どうやっても救いようのない悪意だ。何故ならそれは償えない罪だから。謝罪も贖罪もできない罪悪に、許容も何もへったくれも、そんなことはぼくの知ったことじゃないね」
「人を殺した人間はたった1人の例外すらなく地獄の底辺にまで堕ち沈むべきだ」



浅い。そしてぬるい。さらに言うなれば、その立場に立って物事を考えていない、幼稚なる精神が透けて見える台詞だ。
確かに人殺しは取り返しがつかない。だがな。世の中には、取り返しがつかないからって躊躇していると「さらに取り返しのつかないことになる」ことがあるんだ。たとえば戦場。あるいは医療の現場。さらには法律、何らかの事件が起こればそれは我々の日常生活の中にも可能性として起こりうる事象だ。そんな時己はどうするというのだ。我輩としては総てを奪われ冥府に堕ちるがいいと思うが。
殺人を擁護するわけではないが、余りにも思考にかけている。白痴だ。所詮「戯言」か・・・言葉とは言霊、その時の全身全霊全感情を込めて、必滅の巨砲を放つが如く発言せねばならぬ。真剣に言葉を発せないものは、真剣に生きていないということだ。だから、命の価値を図りそこなう。



「金は命より重い。それを理解できぬものは生涯地を這いずる。」

なんとも愚かな論理である。発言者の言うところによれば、人は金を得るために働く、すなわち寿命から一定の時間を削って金を得る。故に金と命は交換であり、命を払う以上金は命より重い。
馬鹿である。その金を何のために使うと思っているのか。生きるためではないか。つまり、命を続けるには一定の命がコストとして必要なだけのこと、金はその間にある媒体に過ぎぬ。何のために命があるのか、分かっていないからこのようなことをほざくのだ。
所詮ばくち気違い、愚かであって当然か。

「妻は楽しみながら殺されたんだ。娘もだ! 娘はまだ10歳だった!」
「そんなことは警察にいいなさい」
「裁判が悪い、あれで7年だと?」
「だったら自分で裁判官を罷免すればいいでしょう。殺人したりせずに。それまでロクに制度を改善しようとせず、都合が悪くなると暴れる。君に正義を論じる資格はないわ。死んで地獄でわめきなさい」


言っている事は正しい。しかし納得は出来ない。そういう事象がしばしば存在する。このやり取りは、その一例だ。
家族を殺され、その犯人があまりに軽い刑罰を受けたことから、鬼となった男。
それを殺そうとする女。
しかし、理屈は正しいが、その嘲弄は我輩には許せない。平凡な幸せを持つ普通の人間にそこまで要求するのは酷というものだ。我輩にしては珍しく温情な考えであるが。

それは紛れも無い悪であるが、許容しうる悪という点では正義であると思われる。悪台詞のほうにも類似のものを書き込んだが。

【心に壁を作る者】
雑草は自分なりの矜持を持っていた。
踏まれても、わたしは再び起き上がれる。菜園で育てられた「箱入り」には負ける気がしない。方々が道路脇にくれば、たちまちのうちに音を上げるであろうが、わたしは違う。
排ガスにも砂埃にも耐えることができる。雑草として生まれ、その覚悟を身の内に刻んでいるから。
――雑草は気づいていない。
もし陽の光がなければ?
もし雨が降らなければ?
もし土がなければ?
雑草は気づいていない。

的外れな皮肉というものは、愚かしさに哀れさえ覚えることがあるが、これもそう。
ここでいう草は無論人間であり、陽の光、雨、土は周りの人間や環境、社会と言うことが出来るだろう。

だが、「それが無ければ」という前提などありえない。何故なら、「人の間にいるからこそ人間」なのであって、人間存在において周囲の社会の存在は前提条件なのだよ。
強いて言うなら飛行機事故か何かで密林にでも落ちて生きてたらそうなるかもしれないが、それはもうサバイバルとかそっちであって(それとて救助というものがあろうし)この皮肉の範疇には入らんだろう。

さらに言うなれば、誇りと壁は無関係だ。否寧ろ、人と付き合うからこそその中で自己があり、自己があるからこそ誇りがあるのだ。

そして、トドメに。
たとえ死んでも消えないものこそが誇りなのだ。陽の光がなくとも雨が降らなくとも土がなくとも、それとは関係なく命尽き果てるまで否尽き果てても尚、誇りは存在し続けるのだ。


正義が無くても地球は回る。

正論ぶった戯言、といったところか。地球の自転がここにおいて何の関係が有る。
確かに正義がなくても地球は回る。だが、それは所詮回るだけだ。
回ってるだけでは、つまらんではないか。偽正義の悲劇を考えに入れても、なくてはやはり世界が面白くない。

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