よく似た二人〜ガンダムSEEDに関する考察の補足・池田屋の二人編〜
本稿を読む前に、前提である「こちら」を熟読のこと。ここはそれに対する一種の補足であるがゆえに。
同じ機動戦士ガンダムシリーズ、同じCV池田秀人、しかもキャラもなんとなく似ている二人、「シャア=アズナブル」と「ギルバート=デュランダル」。
この二人の違いを、特に似ているとされる「逆襲のシャア」のシャアとデュランダルについて比べてみる、というのがこの文章の本来の趣旨なのであるが。(正確に言えば「こちら」で述べた違いをより細かく比較していくというかたいか)
我輩(注・筆者)からしてみれば、この二人の違いは結構明確なので、むしろ違いを語ることからはじめてみたい。
とあるムエタイアクション映画のキャッチフレーズをテンプレートに(いやこれが結構はまるのだ)と、ギルバート=デュランダルのシャアとの相違点をあげるとこうなるだろうか。
1.無茶な粛清は行いません。
2.ロリコン趣味に走りません。
3.指導者のくせにMSにのって前線に出たりはしません。
4.血統などを己のカリスマに対する補強要素として使いません。
5.ディスティニープランで今すぐ愚民ども全てに英知を授けます。
・・・
こうして「しないこと」をあげてみると、政治家としては、シャア=アズナブルよりギルバート=デュランダルのほうが、順当な気がする。いろんな意味で。
目指したところが「地球人類粛清」か「遺伝子共産主義の普及と実施」か(「ディスティニープラン=遺伝子の共産主義」という解釈の仕方は当サイトの閲覧者の一人・戦闘勇者殿によるもの。助力感謝)という違いも大きいといえるが、これはむしろ「独善的改革者」という点で類似していると見るべきか。
あるいは社会構造が安定していた時代における「唯一の革新的勢力としての」マックス=ウェーバー言うところの意味でのカリスマとしての存在がシャアであり。
既に社会状況が混迷している中で、実際に存在する急進的政治家(誰とは言わぬが)のカリカチュアとしての存在がデュランダルであるというと言えるだろうか。
いずれにせよ巷間言われているほどデュランダルはシャアもどきではないどころか、むしろ実質は正反対の存在であるということが出来る。
シャアが粛清という手段に代表される「人類に対する絶望の極み」であるならば、デュランダルは「人類に対する希望の極み」、ディスティニープランという手段による、人は正しく律されれば理想の存在足りうるという概念の暴走者、と言える。
言うなれば、「理性の限界・正しさの限界」こそが、デュランダルというキャラクターがリアルロボットものの登場人物としての示した現代社会の欠陥・・・ということになるか。
しかし過去の存在としてのシャアが、無知蒙昧で感情により妄動する大衆へのアンチテーゼであり、同時に大衆に対して反感を抱き過激行動に出るインテリという存在の限界を示すキャラクターであると見るならば、両者の存在意義は再び重り、そして同時に三度離れることになる。
つまりシャアが「知性の限界」というべきキャラクターとなるのであれば、「理性の限界」デュランダルの前段階である、と言うことは可能になる。
だが、キャラクターが示す要素としてみるならば、同時にデュランダルの示す問題は、シャアが示す問題など比較にならないほど深く沈鬱である。
「知性の限界」であるならば、出した答えが間違っていたということになる。考え直し、新しい答えを探せばいい。実際、逆襲のシャアからの平成ガンダムは、ことに「W」において顕著であったが、新しい答えを探す物語であった。
だが、示される問題が「理性の限界」であるならば。考えることそれ自体に限界があり、人は人である限り、どれだけ考えても答えにはたどり着くことは出来ない、ということになる。
そしてそれは、悲惨な混乱の中でSEEDDISTINYが提示した問題であり、いわばアムロ=レイという存在に対する対向者、作劇上での悪という限界を超ええぬシャアと違い、ギルバート=デュランダルは作品のテーマそのものを体現した存在である、と言うことが出来る。
故に作品の特性上、分かりにくく、誤解されやすかった、と。以上が単純な2キャラクターの比較としての論であるが・・・
無論、ギルバート=デュランダルの示す「限界」を突破し行くことが、今後のロボットアニメ作劇の重要課題であることは、言うまでもないだろう。
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