不死者への一言

空科傭兵団の掲示板にて、三毛殿が(以下黄字が三毛殿の文、白字が我輩の文)

>実際にエルフやインファルト人(三毛殿のSF小説「追跡者」シリーズに出てくる、数百年以上の寿命を持つ宇宙人)みたいな長命種属がいたら、世界経済や文化などにどういった影響が出るか。

という問いを発し、興味を覚えたゆえ我輩考えてみることにした。さらにその明確な状況として、三毛殿の小説「追跡者」より

>リクター撃破後、たとえば60代になったりした岩戸夫妻のまえに、高校時代と全く変わらないミリィたちが現れたら……、素直に喜べないんじゃないかな。(リクターは追跡者の最初のシリーズの主敵。岩戸というのは主人公の地球人少年で、後に恋人・加納エミと結婚したという設定。このとき一度地球を訪れたインファルト人のミリィが、201年後また地球にやってくるところから、第二部が始まる。それだけの長寿種族ゆえに、第一部の主人公達が老いたころにひょっくり姿を現したら・・・という可能性を考慮できるわけで)

という状況を提示される。

後者の問いからだが・・・劇画Qちゃんですかい。昔藤子・F・不二夫が、「お化けのQ太郎」の世界から十数年後、大人になった子供達の前にひょっくり昔のままのQ太郎が現れるという話を書いたのですよ。あれはなんとも苦く、やりきれない作品だった。
しかし、同様の状況を角川スニーカー文庫の「吸血殲鬼ヴェドゴニア」では、実に美しい結末としている。物語の最後、吸血鬼となって永遠の夜を生きることとなった主人公が、もう百歳近い老婆となったヒロインの死ぬ間際の床に、まるで幻のように若き日の・・・老いた今では夢幻のように朧な、現実であったかと疑うほどに奇怪な戦いと思いの日々のままに。
そして彼女はかつて別れた青春の想い人と語らい・・・以下、文章を抜粋。
「〜そうだった・・・思い出した。恋という荒波を前にして、彼女はまだあまりにも弱く、幼く、臆病で・・・それでも一途で、果敢だった。今では信じられないほどに。私は昔、あんなにも激しく、切なく、誰かを想ったことがあった・・・」
そしてかつての少女は静かに逝き、少年は夜の永遠を再び旅に出る・・・という結末は、舞台の深々たる雪景色と似て、静かな美しさを持っていた。

これに関しては、作者の死生観・人生観が問われることとなるだろうが・・・我輩は、たとえ長生の者とても、置いた体を恥じることなく、再会したとき心と心で向かい合える・・・アズマもエミも、そんな大人になると確かに信じている。
基本的にはこの対処が、この問題への解答なのだが、種族と種族という概念から見たら、もう少し問題は込み入るだろう。少なくとも、長生種族の秘密を解き明かして人類の寿命を延ばそうという考えはすぐに現れるだろうし、それで人体実験や生体解剖など行おうものなら、間違いなく戦争勃発である(汗)
長生種族の了解を取っての、穏当な研究ならそれほど問題は生じないだろうが・・・そうでない場合は。なにしろ地球人は、肌の色や政治的信条の違いすら未だに超えられないのだから。ましてや目の前で数百年も若いままで居られたら、嫉妬心が芽生えかねない。
こんな戦いになってしまうと、長生者は不利かもしれない。何しろ単純に成長スピードが遅いから長寿ってことならば、人工増殖率は短命な人間のそれに比べ圧倒的に劣るということになる。よっぽど科学力で勝ってないと絶滅の危機が。

大人になるまでは成長スピードが人間と同じで、成熟してからなかなか年取らない・・・というのならば話は別だけど。そういう偏った成長曲線を描く場合遺伝子操作で体を強化した人工種族という可能性もあり、科学力のアドバンテージも高そうであるが・・・

そういう点もあってか、SFやファンタジーにおいて長寿ないしは不死の種族(アーヴ、インファルト人、エルフ、吸血鬼)は、いずれも老いた種族として描かれることが多い。人間と余り交わらず森の奥でひっそり暮らすエルフ、夜の闇月の光の下でしか生きられず、人間と戦い滅ぼされていく吸血鬼。清水三毛殿の「追跡者」におけるインファルト人は闘争を好む性質で一見若々しい力があるように感じられるが、それゆえに内乱を多発し生き残りは少ない。栄えているのはせいぜいアーヴくらいだ。彼らは劇中においては宇宙に出たことの無い種族である主人公にとっての「宇宙の先輩」とでも言うべき存在であり、やはり「種族として年上」との印象は存在する。

しかし・・・これは特にファンタジーにおける長寿種族に顕著なのだが、「生き飽いている」といった印象が存在する、というのはどうだろうか。SFにおいても、「寿命が違いすぎるが故に他の種族とは必ず死別してしまうゆえ、心から交流できない」とか。

しかし我輩は、その設定は微妙だと思うのだ。何故なら彼らが人間ないしそれに類する短命種族と普通にコミニュケーションできている以上、ものの感じ方生体時間の流れ方は同じなはずで、つまりゾウとネズミの違う時間ではなく、同じ時間を生きているはずなのであるから、そこまでの疎外感はあるまい、と。そもそも人だってその100年ほどの人生の間に何ども別れを経験するが、それで倦むほど脆弱ではなく、新しい出会いと共に新しい時間を生きるではないか。

ならば、それが仮に一千年に延びたとしても、何ほどの問題やあらん?と我輩は思う。恐らく未来において、いくらかは寿命が延びるであろうと推察される我が子孫達のためにも。

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