「侵略宇宙人から見る日米相違~藤原帰一著・デモクラシーの帝国(岩波新書)より~」

タイトルにある、そして本稿を書くきっかけとなった書「デモクラシーの帝国」は、現代国際政治を扱った本である。本来、侵略宇宙人というSF的な要素とは何の関連も無い。
しかし、その第二章「自由の戦士」において、映画からアメリカの行動パターンを考える項目が存在し、そこで「インディアナ・ジョーンズ 魔宮の伝説」と並んで「インディペンデンス・デイ」が取り上げられていた。巨大な円盤に乗った宇宙人が現れ暴れまわり、独立記念日にアメリカが反撃するあの有名映画。
「インディアナ・ジョーンズ」のほうは古典的なオリエンタリズムと、「救うために他国に赴くというお題目」そして「植民地目的でないことを示すため引き上げ、自己愛を守る」について語り、そして「インディペンデンス・デイ」では「アメリカの防衛と世界の防衛の混同」「我々とやつらの区別」が語られた。さらに、この映画の筋書きにおけるアメリカの行動は、不気味なほどに「9/11事件」以後の現実のアメリカの行動に類似していると。
そして特に後者「インディペンデンスデイ」においては、「9/11」関連の現代的な要素のほかにもう一つ、「この本は実はSF創作論の本なのではないか?」とか考えちゃうほど、「アメリカ大衆文化における宇宙人」について詳しく語っているのだ。これには、大変興味をそそられる。
纏めると、アメリカ大衆文化のSFものにおいて出てくる宇宙人・・・スタートレックやスターウォーズのように宇宙を舞台として複数の宇宙種族(人類すなわち地球星人を含めて)が出てくるものや、「ET」のような平和な交流を描いたほのぼの物以外には三つの特徴がある、と。

1.武力で打ち倒す以外方法の無い絶対的悪である
このイメージを確立するのには、三つの演出が用いられる。まず、宇宙人に極限的な大破壊を行わせる。これにより、悪のイメージが固まる。
次に、宇宙人は醜い姿を与えられる。昆虫のような、生理的嫌悪感を抱かざるを得ない姿。精神的にも人間の情を持たず、昆虫のように冷徹に行動する。
そして、使節団などを攻撃させ「先に手を出した」ことにする。この三つで、宇宙人は悪魔となる。一切の感情移入を許さず、戦争の正義を疑わせない、完全な悪役に。

2.人類よりはるかに科学力の進んだ、そしてその科学を全体主義的統一の下で得た存在である
まあ理屈からして、はるか宇宙の彼方からやってくるには優れた科学力が必要なのだが。
しかしこれは、第二次世界大戦におけるナチスドイツのイメージが強い。

3.武力ばかりでなく、人の心にも進入し、洗脳する力を持つ
これは2と対照的に、共産主義の侵食のイメージ。

と、こういう風に著者・藤原帰一氏は纏めている。そこで今度我輩は、この三つの法則について日本におけるSF創作の侵略宇宙人と比べてみようと思う。
さて、まず1のパターン。絶対悪について・・・というか、2と3はこの「絶対悪」を盛り上げる演出的要素の色が濃い。いずれも、「アメリカにおいて悪とされた存在」の一種のカリカチュアライズであるからだ。
それで纏め点が得てみても、日本においてはそれは完全に逆とでも言おうか・・・昔の作品ならばともかく、そして昔の作品においてもかなりの数のものが、絶対悪とは呼べない、彼等なりの考え方と理由を持つ生身の存在として描写されている。

たとえば、特撮から見てみよう。本邦特撮番組ならびに映画において古い侵略者をある程度例示するならば、映画ならば「地球防衛軍」のミステリアンやX星人、TV番組ならばウルトラマンの宇宙人たちと「マグマ大使」のゴアが挙げられる。
ミステリアンは、物凄く穏当な侵略者として知られている。住むべき星を失い数千年、アステロイドベルトで耐え忍んできたけどもはや限界ということで残り少ない住民が日本富士裾野にドームを建設、超科学の兵器を展開して威嚇してから「半径12Kmの土地と地球人との混血の自由」という、恐ろしく控えめな条件を出したのだ。
結局そのささやかな野望は地球防衛軍に阻止されてしまうのだが、こんな要求なら呑んでやってもよかったような・・・少なくとも滅ぼすまでしなくてもよかったような気すらしてくる。
「マグマ大使」のゴアはそれに対して目的は「美しい星地球を手に入れること」と逼迫した理由もなく壮大で、迷惑で一見絶対悪っぽい気もするが、何故か「子供に甘い」という妙な弱点を持っている。手塚治虫原作漫画では自分の持ってる星から子供を集めて養っていたし・・・
ウルトラマンの宇宙人にはまた様々な存在がいたが、「ウルトラQ」におけるシリーズ最初の宇宙人であるケムール人は劇中言葉を話さずコミニュケーション不能で(それでも地球人に自分達の目的・・・若い体を得る・・・を話していた。どころか自分の弱点までウッカリばらしている)ある意味アメリカのエイリアンに近かったかもしれないが、すぐ次に地球人に味方し、人間そっくりの姿を持つルパーツ星人が登場している。
そしてウルトラマンのバルタン星人。こいつは蝉のような外見にも関わらず、地球移住のために最初は話し合いを試みている。地球人的な「生命」の概念が理解できなかったため交渉は決裂したが、これに関しては「仕方ない」という印象を受ける。何しろ分身して自分を自在に増やせるような種族なのだ、地球人と違ってより遺伝子的に物事を考えるのかもしれない。しかしそんな彼等も、その後何度も地球を訪れるたびに人間の考え方を理解していき、「80」では日本の諺まで使っていたし、「コスモス」では子供達のために地球を手に入れようとする大人と戦って欲しくない子供との葛藤という人間くささを見せている。
その後のウルトラシリーズの宇宙人たちも、人間の心の強さを試そうとし、それを見届けるとあくまで紳士的に撤退したメフィラス星人(ポール星人もやはり人間の精神的強さに敬意を表していた)、地球人を争いばかりする悪と判断したマゼラン星人、その互いに争う心の間隙につけこもうとしたメトロン星人、中には事故で不時着し地球人の偏見により集団リンチで惨殺されたメイツ星人なんてのもいる。
いずれも、人間的存在であり、絶対悪とは言いがたい。
本邦特撮における宇宙人といえば戦隊ヒーローものの敵でも宇宙人は何種類か存在したが、これもまたアメリカ的絶対悪とは違う存在だった。彼等の侵略自体は確かに身勝手な理由のものもあったが(宇宙総てを我が物にしたいとか)、その過程で彼等は互いに争ったり、失敗に苦悩したり、侵略に嫌気が差して裏切ったり、失地挽回のため命を懸けて戦ったり、時には恋をしたりと、やはり人間的存在であることを止めなかった。
そして、アニメーション作品においては主に巨大ロボットものに侵略宇宙人の存在が多いが、こちらの場合さらにその特徴が顕著だ。最初期の侵略宇宙人を敵とする作品「UFOロボグレンタイザー」「大空魔竜ガイキング」においては割りと単純な悪役として描写されながらも一応「母星が消滅したから」という理由は語られていた。その翌年に作られた作品である「超電磁ロボコンバトラーV」から既に、絶対悪としての侵略宇宙人という表現からの脱却が図られている。
コンバトラーVの敵であったキャンベル星人は基本的には確かに悪役的ではあった。しかし己がロボットであるという事実を知らなかった初代司令官ガルーダとその侍従ロボットミーアの苦悩や、最終的にキャンベル星で穏健派が政権をとり侵略が中止されるなどの展開を見せる。シリーズ作品である「超電磁マシンボルテスV」でも、最終的に侵略に反対する敵宇宙人民衆が革命を起こしている。元から絶対王政時代のフランスみたいな宇宙進出している割に極端にアンバランスな国で、いうなれば王の個人的意志で外交が決定された昔の欧州の王国みたいなものだったのだから。
その後の「無敵鋼人ザンボット3」「闘将ダイモス」など、その単純な絶対悪打倒による勧善懲悪という概念を否定する作品が主流を占め、その後のリアルロボット路線にも続いていく。
ザンボット3に至ってはその敵・ガイゾックを率いていたのは実は地球が将来悪になる可能性を見越して今のうちに滅ぼしにきた文明浄化コンピューターであったという、衝撃のラストまで用意されている。
・・・何だかロボットアニメばっかの気もするが、多いのである、ロボットアニメの侵略宇宙人。

そして、アニメにおける侵略宇宙人はこれも初期のものを除けば人間に近い姿をしたものが多い。アメリカ流のグロテスクなエイリアンは日本においてはやるところではなかったのである。
特撮においては宇宙人は人間とは異なる姿をしているものがむしろ支配的(ゴアは比較的人に近いけど)だが、たとえばバルタン星人やメフィラス星人の姿を見て・・・グロテスクだとか嫌悪感を覚えるとか気色悪いとか思うだろうか?
我輩の周囲の人々に一応聞いてみたが、そう答える人はいなかった。エイリアンとかインディペンデンスデイの宇宙人とかは気色悪いて言う人でも、バルタン星人を気色悪いという人は少ないはず。
何故か。
それは日本特撮造形界の偉大なる先達・成田了氏とのお力によるところが大きい。氏は怪獣や宇宙人をデザインするとき、単なるグロテスクな怪物ではなく「あくまで生きるための器官としての特徴を備えた生身の生物」たるべしとしてデザインされたと言われている。無論その背後には優しき特撮の神・円谷英二監督の思想が生きているのだが。
そしてもう一つ。受け取り手である日本人にも要因はある。
正義をなす光の巨人、ウルトラマン。彼らもまた宇宙人であり、仮面を思わせるその顔は人間とは似て非なる姿であったが、彼等は行動で己を示した。
そしてもう一つ。これは宇宙人とは関係ないが、石森章太郎が描き出した、苦悩する異形の戦士仮面ライダー。彼の葛藤を通じて我等日本人は外見が異なることによる差別がいかに悪いかを学んだはずである。
これは「デモクラシーの帝国」において藤原帰一氏が言及したH・G・ウェルズの「宇宙戦争」にあった「植民地支配の寓話」と「我々と彼等という地球的区分への懐疑」にも通じる。

最近においては、「人間的な宇宙人」どころか、「人間よりも優れた宇宙人」が登場するようにすらなった。アニメ「まほろまてぃっく」に出てきた「セイント」という宇宙人がその例である。
自分達の星を離れて相当な、自分達の星の位置すら分からなくなるくらいの長い間を旅してきた宇宙人。「セイント」という名のは彼等の自称が地球英語の「聖人」を意味する言葉と類似していた音のためでもあるが、彼等の精神性にもあった。
彼等は、極めて高いレベルの成熟した平和的精神を持つ宇宙人だったのだ。交渉の初期段階において地球に漂着した先遣隊は快く人間の調査に応じ、その後の交渉である意味地球側のとった「人質」的存在となるのだが、暫くの間そんな地球人の悪意の存在・・・恐らく悪意という概念すら知らなかった、純粋かつ善良な存在。
何しろいざ「地球人の支配者達は自分達のテクノロジーを奪おうとしているだけで、交渉の余地が無い」と気づいて戦闘に及んでも、圧倒的科学力のアドバンテージを持ちながら戦うという行為に慣れていなかったため巧く兵器にそれを転用できずにずるずるとジリ貧の持久戦に持ち込まれてしまう体たらくである。そして、それでも地球人との交渉を捨てようとはしていない。
はっきり言って、地球人の方が悪いくらいである。おおよそ絶対悪的宇宙人の対極的存在である。

このように、日本においては非・絶対悪宇宙人の方が覆い。いや、はっきりいうなれば「絶対悪な敵キャラしか出せない作品は二流」という風潮すら存在する。
何故これほどまでに違うのであろうか?
我輩としては大東亜戦争敗戦による一種過剰なまでの平和主義への転向と、非一神教的な宗教要素が原因ではないかと思うのだが・・・という問いかけに対して、我が盟友・サイト「空科傭兵団」管理人清水三毛殿も興味をそそられたらしく、様々な回答を返してくれた。(以下、黄色の文字が清水三毛殿の発言)

>ただ、これは、異星人に限定されず、ほとんどのアメリカ作品では、悪役というものは、単純な絶対悪として描かれることが多いそうです。以前きいたソニー取締役が、アトムを主題にした講演会で、日米アニメを比較し、そのように語っていました。アニメの場合は、欧米では子供向けという位置づけだから悪役の掘り下げが行われないのでしょうが、さて実写でも同様の現象があるとなると、原因は?

>おっしゃるとおり、宗教観念の差は、大きな要因でしょう。一神教と、アニミズムを基礎とする多神教の国とでは、文化格差はあって当然。


>各論的にいえば、マンガ、アニメなど、子供向けの媒体においては、手塚治虫の存在は大きいでしょう。そうした本来こどもむけとされていた創作形態においても、実写映画的な、ドラマの掘り下げを行うことで見ごたえのある作品群を生み出した彼は、当然、単純な悪などは描かなかったわけで。

>古くは「かぐや姫」のように、異質な存在と共存しようとする伝承もありますから

など。

ことに、

>最後に付言するなら、確かに、アメリカでは、映画など映像メディアでは絶対悪としての異星人が多いのですが、小説となると、そうではないのです。単純な勧善懲悪アクションSFは、戦前に隆盛をきわめましたが、1950年代以降の欧米では、SF小説は文学の1ジャンルとして成長したため、絶対悪な異星人などという単純なキャラクターは見かけられなくなったように思います。空科傭兵団のSF百選をお読みなら御分かりかと。(欧米SFにおける映像と活字のこの差はどこから生じるんでしょう? 日本ではウルトラなど映像媒体でも価値相対主義なのにね)

という三毛殿の言葉には、大変興味をそそられた。

そこからこの日米の差異の原因的な一つの可能性に思い至ったが、少々危険思想気味(汗)
すなわち欧米では、貧富と、そしてそこから生じる知識に、階層的な差が存在するのではないかと。すなわち万民に触れうる作品と、そうではない作品があるのではないか。そして前者は民の意思子を単純状態にとどめ置き宣撫しやすくするために、後者はそれを覆い隠し、見た目「文化的」を保つために・・・いや、それはないか、とは思う。三毛殿の意見としては、

>活字媒体とちがって、映像媒体は、より幅広い階層の人間にみてもらうモノだし、国外への輸出産業としても重要だから、最低知的レベルにあわせて製作してる、のかもしれませんね。恐っ。

とのことであるが・・・

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